休日が多すぎる

 どこの学校でも同様だと思うが、私の勤務先でも今、来年度の予定表というのを作っている。なかなか大変な作業だ。
 3年生は、生徒が選択した進路に応じて、多忙のピークが異なる。私の勤務先のように大学進学も就職もいるという学校は大変だ。多忙のピークが、就職試験、大学のAO入試、推薦入試、一般入試とずれるため、例えば文化祭を設定するにしても、必ず誰かの多忙と重なってしまうからだ。
 しかし、ああでもないこうでもない、と妥協点探しをしつつ、年間予定表を見つめていて思うのは、休日があまりにも多い、ということだ。会議で使う白予定表では、休日が黄色表記されているのだが、なんだか半分以上は黄色なのではないか?と思ってしまうほどだ。
 最近よくいわれる話、日本の祝日日数は他国に比べると多い。私が教員になってからだけを考えてみても「昭和の日」「みどりの日」「海の日」「山の日」と4日も増えた。今や全部で16日もある。どっちみち冬休みと重なる「元旦」や、夏休みと重なる「山の日」は考えないにしても、それでも14日だ。調べてみると、外国は10日くらいのところが多いようだ。
 なぜ祝日が増えるかというと、日本は年休を取りにくい風土があるから祝日によって休暇を確保させる、お金を使う時間を増やして経済を活性化させる、といったような理由を聞いたことがある。日にちではなく曜日で祝日を決める、例えば「成人の日」は1月の第2月曜日などというのは、明らかに3連休を作って旅行なりに行かせ、お金を使ってもらおう、ということである。政府もはっきりそんな説明をしていたと記憶する。
 週休2日にこれらの祝日を加え、更に学校の場合、春、夏、冬の長期休暇が、合計で60日以上ある。県総体や修学旅行も外せないし動かせない。そして、予定表の骨格となる定期考査の予定を入れ、その前一週間は行事を入れない、となると、もはやぎちぎち、あっぷあっぷ、という感じだ。休暇が増えたからといってやることが減ったわけではないから、それならいっそ、春、夏、冬の長期休暇をもう少し短くしてくれればかえって楽になるのに、などと思う。そして、こういうことを考えると、そう言えば、週休2日が始まった時にも(今でも?)同じようなこと(土曜日があった方が楽)を言っていたっけ・・・と思い出す。
 学校は多少特別であるにせよ、世間の会社も大変だろうなぁ、と思う。生産や営業に使える日にちが限られすぎているのだ。
 私は何事につけ、人間や生物の原点を基準に考える。この場合、もともと、自給自足で自分たちの生活を維持するための生産や採取にはほとんど休日がなかったはずだ、というのが原点である。工夫と発明によってゆとりが生まれ、それが社会制度として固定されるに至った。そのこと自体は否定すべきではない。しかし、それが単なる工夫と発明ではなく、資源の消費によって支えられているとしたら(多分、事実はその通り)、この膨大な休日は砂上の楼閣である。
 今の人々の生活を見ていれば分かる通り、安逸に馴れてしまった人間は、なかなか逆戻りができない。だとすれば、かりそめの豊かさに浮かれて休日を増やしたりはしない方がいいのだ。経済経済と言って、経済成長が実現すれば、人が幸せになれるというような考え方をすべきではないのは当たり前。だとすれば、人間が工夫によってゆとりを生み出し、結果として休日が増えるならともかく、経済を活性化させるために休日を増やすなどという考え方は本末転倒なのだ。時間をどうやって使うかに悩んだ結果、人々がすることとというのは、多くの場合「消費」ではなく、「浪費」でしかない。もちろん、これは時間の浪費ではなく、天然資源の浪費だ。
 私はやはり、原点が何かを確かめ、そこから離れていくことについては慎重であるべきだし、それが本来的でないことについて自覚的であるべきだ、と思う。
 窮屈な年間予定表を見つめ、どこをどうすればいいか考えながら、やっぱりなんだか変だぞと思う。その思いは、考えるとこういうことである。