「言われる。言われるんです」

 もはや半月も前の話になるが、今月4日の河北新報「座標」欄に、一般社団法人Sail on Japan代表理事・奥真由美という人による一文が載った。「失敗恐れる子ども 挑戦できる環境一緒に」と見出しが付いている。
 それによれば、氏の実感として、最近「思いっきり!」をあえてしない子がとても多いのだそうだ。サッカーの試合の時、失敗したらチームに迷惑をかける、という意識もあるが、それよりも、失敗した時の周りの大人に原因がある、と言う。失敗したら怒る、相手にボールを取られたら失望を表す、思い切って行動しても、行動そのものを褒めることはない、更には、真面目に上手にやって欲しい、他の子と違う行動を取って目立って欲しくない、恥をかかせたくない、と思う。奥氏は、そんな大人がたくさんいて、そういう大人の願望や体面が子どもの意欲を抑制するのだ、と書く。
 私が日々高校生と付き合っていて、確かに子どもが思いきり何かに挑戦するというのは少ないだろうと思う。しかし、その原因が大人だという奥氏の見解には必ずしも同意しない。
 今の高校生は、人から何かを言われるということにとても敏感だ。「自分でいいと思ってやったのなら、人が何と言おうと気にすることなんかないよ」と言っても始まらない。彼らは猛烈に気にするのである。はっきり中傷とかからかいと分かるものではなくても、とにかく誰かから自分のことを言われるのが怖いらしい。そのため、「被害者がいじめと感じればいじめだ」などと言った日には、ほんの些細なことでもすぐにいじめになる。それくらい、「言われる」ということにデリケートだ。おびえている、と言ってもいいほどだ。
 先日、ある進学校の教員と話をしていたら、「授業で当てないで欲しい」と頼みに来た生徒がいたと言って驚いていた。なんでも、授業で当てられたことで何かを話せば、そのことについて何か言われるかも知れないから、だそうだ。その先生が驚いたということは、そのような生徒はまだ少ないということなのだろうけど、最近の傾向を表していることは疑いない。
 言われるから失敗を恐れる。相手が言っていることが正しいかどうかは関係ない。言われるということは、彼らにとって直ちに悪だ。これが困ったことなのは、彼らが正しさを放棄しているからである。はっきり言ってしまえば、発想が「ご機嫌取り」なのである。
 おそらく、このことには更に原因がある。私は、大人がどうこうではなく、SNSなど、ICT(デジタル)の威力ではないか?と想像している。デジタルネイティブである彼らは、ICTの力の大きさ、陰湿さ=怖さをよく知っている。昔のように、対面で悪口を言われるというレベルではない。そこに、元々人の目を気にし、相対的に是非を判断しながら円満に、悪く言えば当たり障りなく生きるという日本人の国民性が作用し、萎縮の度を強めるのではないのか?
 大人が悪いとすれば、そんなデジタル機器を子どもに気軽に持たせること、子どもがそれらを通して「何かを言われた」とくじけた時に、すぐに子どもが本来自ら行うべき解決への模索を取り上げ、大人自身が動いてしまうことにおいてだ。奥氏が書いているような、大人が子どもを萎縮させる、というのではない。
 必要なのは、「言われた言われないではなく、自分が正しいことをした(言った)のかどうかを考えろ」と子どもに問いを突きつけることだろう。とは言え、実際に「言われて傷ついた」と泣いている若者に、なかなかそういう対応は取れない。かと言って、やはり、「言われる」ことを恐れ、できるだけ当たり障りなく生きようとする高校生を見ながら、ただニコニコ見ているだけがいいとも思わない。・・・これからの世の中はどうなってしまうのだろう?と不安を感じるのは、私だけだろうか?