ニュージーランドの高校

 この前の日曜日、ちょっとした事情で、ニュージーランドの高校関係者(日本人)とオンラインでお話をした。その中で印象に残ったことが3点あるので、紹介しておこう。

 

1:数学など、若干の必修科目はあるが、多くは選択科目である。好きなこと、得意なことを伸ばそうという発想がある。
2:考査はすべて記述(作文)式で、解答用紙はレポート用紙のようなものだ。選択式や単語で答えるような問題は存在しない。
3:成績が悪ければ自動的に単位を落とすことになる。学校から手を差し伸べられることはない。危ないと思ったら、自分から先生に食らいつくことが必要だ。

 

 1は私の方針と完全に異なる。私は、今の日本の学校でも選択科目が多すぎると思っている。私が高校時代は、理科、社会が全科目必修だった。それは正しいやり方だったと思う。理科にしても社会にしても、それらは自然界や人間社会に関する知識を、便宜的に物理・化学・生物・地学、あるいは日本史・世界史・地理・政経・倫理に分けているだけであって、本来は一体不可分。高校時代にすべての科目について通り一遍の知識や考え方を授けておくことは、人生を生きていく上で大切なことだろうと思う。日本の大半の高校生は、目先の試験のことばかり考えて、自ら主体的に学ぶということがない(←大人のせいです)のだから、なおのこと、基礎的な知識を学校が与えることは大切なのである。
 日本の高校で選択科目というものを見ていると、意欲的に学ぶために選択するというよりは、嫌なものを避けるためにという傾向が強く、必ずしも選択した科目に対して強い学習意欲を持っているとは限らない。だから、なおのこと私は科目選択に懐疑的なのだ。
 ニュージーランドなどという国は、日本に比べると良識的に社会が動いていると感じることが多いのに、なぜこんなシステムを採用したのだろう?この点に関しては、私の思いはすっきりしない。
 2、3は1以上に日本の学校と対極的なやり方だ。これらの点に関しては、私は全面的にニュージーランド方式に賛成する。どのような考査のスタイルが生徒を伸ばすか、真面目に考えれば、レポート形式以外には考えられない。記号や単語で答えても、それで何が分かっているとは言えないが、レポート形式で書ける生徒はしっかり理解できているはずだ。逆に言えば、文章で説明できないということは、分かっていないということである。
 日本の高校では、学校の性質にもよるが、勉強しない生徒に「どうやって点数を取っていただくか」という発想で問題が作られることが多い。その問題は、留年はかわいそうだという感情的配慮や、生徒が単位を落とすことで学校にクレームが入ったり、教員が責任を問われたりといった面倒を避けるという目的によるのであって、生徒を伸ばすために考えられたハードルではない。
 また、そもそも高校は、中学校の勉強では飽き足りないという理由で進学するはずの場所だし、勉強の効率は学ぶ側の主体性によって決まるものだ。にもかかわらず、日本では、サボりにサボりを重ねない限りは単位を落とさない仕組みになっている。日々の提出物は、期限に遅れても教員が繰り返し「出せよ」と催促するし、日頃から徹底的にサボっていても、赤点が付くと教員の側から手を差し伸べ、追指導を行って単位を取らせようとする。
 これらは、学校が目的集団であることに反すると私は思っている。しかし、おそらくそれが日本人の「甘えの構造」なのだろう。そんな場所で育った生徒は、少なくとも世界では絶対に通用しない。日本独特のぬるま湯の中で生きていけるだけである。そのぬるま湯も、世の中が平和で豊かな時だけに存在し得るものだ。
 たかだか1時間話を聞いただけなので、実情がどれだけ理解できているかは怪しく、もしかすると、自分の考えに引きつけて勝手な解釈を施していないとも限らない。しかし、日頃、日本の高校を内側から見ていて、「救いようのなさ」を感じている(ごめんなさい)私としては新鮮だった。