全ては信頼関係に基づく・・・体罰考



 大阪市立桜宮高校で、教師の体罰を原因とするらしい自殺事件が起こってしばらく経つ。その後の市長の言動も含めて、いろいろ思う所はあった。今日は、教師の側についてだけ、思う所を書いておこう。


 もう20年以上も前の話、当時勤務していた同僚にF先生という体育教師がいた。たまたま同じ部活で副顧問を命じられ、ただでさえも部活大嫌いな私は、お互いに不本意なダメ顧問をしていた。

 最初から度肝を抜かれた。私の頭の中にある「指導法」とは、何もかもが違っていたのである。東京の某右翼的な私立大学の運動部でしごき抜かれてきたらしいF先生が、私と全く違う価値観で行動するのは当然だっただろう。生徒に対して、実によく手を出した。なかなか痛そうな一発である。

 ところが、この先生の下で、生徒は生き生きとよく動いた。部活だけではない。そのクラスは行事に非常に強かった。最初は、まじめにやらないとF先生の鉄拳制裁が待っているのだろう、生徒はそれが怖くて動くのだろう、と思っていたのだが、それにしては生徒の表情が明るい。F先生が怖くて学校に足が向かないというような生徒も現れず、むしろF先生のクラスは出席率もよかった。

 やがて、F先生が異動になった。泣きながら「最後にもう一度殴ってくれ」と言う生徒が、何人か現れた。

 当時、この学校の生徒指導部長は、K先生という、厳しいと同時に生徒に対する無限の愛情を抱いている熱血先生だった。この先生は「体罰」などというものを絶対に認めない人だった。ところが、この先生がなんとも釈然としない、それは自分自身の信念に迷いを感じているかのような表情で、「F先生のあれはなんだか違うんだよ」とため息交じりに言っていた。

 それから2〜3年後、おなじく体育の女の先生(講師)が、部活で生徒にびんたをして問題となった。その先生は、管理職に「指導」された後、同僚である私たち数人に対して、「自分は幼い頃からそういう指導を受けてきた。その指導はいまだに間違っているとは思わない。だから私もそういう指導をしてきた。それが絶対に悪だと言われたら、私は指導なんて出来ない」とこぼした。この先生は、間もなく結婚し、教壇には立たなくなった。結婚したからなのか、自分の信念(指導法)を否定されたからなのかは分からない。


 何をするにしても、今相手との間にどのような信頼関係が成り立っているかを見極めることは大切である。私が女の人に同じ事を言っても、「きゃぁ、平居先生ってエッチね」と明るく笑われる時と、「平居はセクハラ教師だ」と陰で眉をひそめられる場合があるに違いない。自分のすることが、その時その場での相手との関係で許されることなのかそうでないのか、その判断こそが常に大切である。体罰が問題になる時というのは、手を出したことが悪いのではなく、お互いの関係を見誤ったことが問題なのだ。私はそのことについて自信がないから、生徒を軽く小突く以上のことが出来ないだけである。そう、自信のない人はやらないに越したことがなく、自信満々の人は常にその自信を疑っていることが必要だ。

 桜宮のバスケット部顧問は、その点で失敗した。ただし、なぜ彼が失敗したかということを更に考えるならば、部活動のあり方ということも考えなければならない。今日は深入りしないが、とにかく勝つことを求める保護者、OB、世間(もしかすると大阪市教委も含む)は存在し、有言無言を問わずその圧力は相当なものだろうし、体育教師の場合、部活動の結果は自分の評価に直結する。まして、桜宮のように体育科を持っていればなおさらである。彼らに圧力をかける外野は、このような事件の後で、自分たちの責任を思い見たりはしない。直接は知らない人なので、確かなことは言えないが、当事者である顧問にも同情の余地はあるかも知れない。