今更ながらに「実演」と「録音」



 今日は仙台フィル定期演奏会に行った。新たに「ミュージック・パートナー」というよく分からない地位に就任した、山田和樹という33歳の指揮者にも興味があったし、プログラムも全て面白いので行くことにしたのである。

(曲目)

ブラームスハイドンの主題による変奏曲』

ラフマニノフパガニーニの主題による狂詩曲』(P:ヴァディム・ホロデンコ)

ヒンデミットウェーバーの主題による交響的変容』

 この中で一番マイナーな曲は、多分ヒンデミットであるが、ヒンデミットの作品としては交響曲『画家マチス』とともに最も有名な作品であろう。しかし、私の印象によれば、ヒンデミットという人は、多作であるにも関わらず、駄作の少ない人である。現代の作曲家(1895〜1963)でありながら調性を守り、メロディーが明瞭で、使用する独奏楽器が多様であり、オーケストラの扱いも上手く、対位法に習熟し、特にクライマックスの盛り上げ方が上手なので、実演で聴くには非常に面白い人だと思う。今日の演奏でも、そのことははっきりと感じられた。

 ただ、山田和樹という指揮者は、若い割に上品でお行儀が良く、はじけるような自己主張がないので、意外につまらないと思った。若者には、これだけ大編成のオーケストラがあってもまだ自分の言いたいことが表現できない!という苛立ちを感じるくらいの破天荒さが欲しい。

 ところで、私は、昨年10月26、27日にチェリビダッケについて書いて以来、チェリビダッケ・ミュンンヘンフィルのボックスセット4つ、CD48枚を、「ながら聴き」ではあるものの、かなり熱心に繰り返し聴いてきた。

 CD化されている演奏の多くは、一般に非常に質が高い。以前から思っていたことではあるが、そうしてバーンスタインや、クーベリックや、ヴァントなど、世紀を代表するような優れた人たちの演奏に馴染んでしまうと、実演に接した時に、実演の良さを超えて、録音との比較でアラが目立ってしまい、不満が心の中にくすぶるということがよくある。

 不幸にして、私がこの3ヶ月ほど熱心に耳を傾けていたチェリビダッケミュンヘンフィルの演奏は、今更ながらに信じられないほどの高水準な演奏であった。オーケストラはひとつの楽器だということが、昔からよく言われるが、その言葉が本当に実感を持って迫ってくる希有の例である。

 ブラームスは同じ曲がチェリビダッケのCDにあり、他の2曲はない。しかし、今日、仙台フィルの演奏を聴きながら、どうしても頭の中ではチェリビダッケの演奏と比較する、あるいはチェリビダッケが演奏したらどんな響きになると想像することを止めることが出来なかった。そんなことをするのは、目の前の演奏を最初から「従」の位置に貶めることであり、そうすれば今聞こえている音楽が本当に素晴らしいと感じられるわけがない。もしかすると、上で指揮者にケチを付けたのは、このことと関係するかも知れない。山田氏にしてみれば、とんだとばっちりである。

 音楽はもともと一回性を持つ芸術である。人間が演奏し、人間が聴く以上、両者の直接の関わり合いの中で音楽は作られ、鑑賞されるべきだと思う。その意味で、密室で繰り返し聞くことの出来る「録音」は、邪道とは言わないまでも、補助的手段だと思う。録音を全否定する気はないが、あくまでもライブと録音には本末主従の関係があり、その関係は壊れてはならない。だが、今の私の内部では、その状態が危うい。これはどうすべきなのだろうか?