改めて「過去に学ぶ」・・・山岡ミチコさんの死に寄せて



 今日の新聞各紙は、広島の語り部・山岡ミチコ(私は「美智子」が本名だと思っていた)さんの死を報じた。82歳だった。

 私が山岡さんにお会いしたのは、1993年11月21日に修学旅行引率で広島を訪れた時のことだ。午前は語り部の方のお話を聞き、午後には原爆養護施設への慰問をした。午後、私は神田やすらぎ園という施設を訪ねたのだが、この時、山岡さんが同行するとおっしゃってバスに乗り込んできたのだ。彼女は私の隣の席に座った。引率とは言っても、この時私は、特定のクラスを受け持たない「2学年所属」という立場で、比較的自由だったこともあって、ずっと山岡さんとお話をしていたと記憶する。

 女学校3年生の時に、爆心地から800メートルの所で被爆し、顔を始めてとして、全身に大やけどを負った。お化けだとからかわれ、誰からも相手にされない孤独な青春時代を過ごした。1955年に、アメリカ本土で治療を受けられることになって渡米、37回もの手術を受けた(この時、「原爆乙女」と呼ばれて脚光を浴びたことを、私は後から知った)。自分をそれだけ辛い目に遭わせたアメリカなのに、渡米した時に、人々が自分たちにも責任があると、本当に献身的に治療に当たってくれたと、感激の面持ちでおっしゃっていた。

 幸運にも、私は、1990年を合わせて2回、広島を訪ね、何人もの被爆者の方と接する機会があったが、山岡さんの冷静さ、謙虚さ、それを支える人間の強さというものは、ひときわ強い印象に残っている。説教や教訓くさい所のない、淡々とした事実中心の語りだった。

 山岡さんが生前、壮絶な苦しみをし、その事実と思いを語って聞かせた人の数は膨大であろう。だが、広島の記憶がどの程度意識され分析され、行動として継承されているかは非常に疑わしい。体験を継承すること、他人の体験に我がこととして意識を向けることは本当に難しい。今までにも繰り返し言ってきたが、たかだか2年ほど前の津波について、教訓を声高に語る人たちが、それ以前の様々な歴史的事件について、驚くほど無関心であることを見るにつけ、私は、教訓を叫ぶことに胡散臭さ、馬鹿馬鹿しさを感じる。今教訓を叫ぶ人こそ、もう一度過去に目を向けてみよ、と思う。

 最後に、1990年の女川高校修学旅行の記録文集から、山岡さんの話を聞いたある女生徒の感想を引いておく。

 「山岡美智子さんは自分が戦争で恐ろしい体験をしたことを、涙を流しながらお話しして下さいました。友達のこと、母のこと。思い出したくないはずの過去を、美智子さんは私たちのために一生懸命語ってくれました。

 美智子さんが言った言葉の中に、『死ぬことは少しもこわくない』とおっしゃった時、私は死を目前にし、一度死の世界を見た者の強さを知りました。美智子さんは、過去から逃げず、明日の命におびえることなく、堂々と生きています。私のように一日を気づかないうちに過ごしてしまっているわけではなく、今日の命に感謝しながら山岡さんは生きていました。

 たとえ原爆のお話をしてくれる人が亡くなってしまっても、戦争という出来事を忘れることはありません。それが美智子さん達被爆者の願いでもあるから・・・」

 この生徒は今何を考えているだろう?この作文を憶えているだろうか?

 山岡さんの遺志を受け、単に原爆は悲惨だということを超えて、人が争うこと、いたわり合うことについて、より深い認識がこの世に育まれていきますように。合掌