投票資格試験でもしたら?・・・新聞購読者の投票率から



 1月24日の『毎日新聞』に、小さな小さなある記事が載った。新聞に直接関係する記事だし、他の新聞社も関わっているようなので、『毎日』だけの訳がないと思ったが、他紙では見つけられなかった。面白い記事だと思う。

 その記事の見出しは、「新聞読者の9割 衆院選『投票に行った』」である。記事によれば、主要8紙が首都圏、近畿圏、中京圏、福岡県で昨年12月の衆院選の投票行動を調査したところ、新聞読者の90.0%が投票に行き、実際の投票率59.32%を大きく上回っていたことが分かった、という。

 『毎日』の記事に言う「新聞読者」とは、新聞を月極購読している人のことであろうが、日本人の新聞購読率は、Gabargenewsによれば、73%らしいので、その90%が投票に行ったとすると、新聞を購読していない人の投票率が0%でも、全体投票率は59%を超えてしまう。これはデータそのものが問題だ。そもそも、新聞を取るのは世帯単位だろうから、単身世帯(1人=1部)はいいとして、大家族(例えば5人=1部)の5人を全員購読者と見なすのか、といった問題もある。

 しかし、それは些末な問題のようにも思える。大事なのは、新聞を3千円あまり払って取るという行為の中に、知り考えることへの欲求、更には社会参加や民主主義といったものについての意識の高さが表れ、それは自ずから選挙権の行使という重要な行動に結び付くというのは、いかにもあり得るように思われるということである。比べたのは投票率だけだが、仮に投票内容が明らかになれば、そこにも新聞を購読している人としていない人の差ははっきりと表れることだろう。パフォーマンス的なことをする候補者、劇場政治を目論む政党への投票率は、新聞を購読していない層で相当高いのではあるまいか?

(後から 坂本英樹というひとが、この記事に言及してデータの性質をあれこれ論じているのを見つけた。→http://blogs.itmedia.co.jp/sakamoto/2013/01/election-rate-5-fbf7.html 私の憶測とずれる所もあるが、話の本筋に大きな影響はないので、紹介に止める。)

 以前、このブログの記事(2012年3月19日)に、某君(入るのが日本で一番難しいとされるT大学の法学部生である)がコメントをくれた。橋下徹の思想についての分析に絡む一節である。某君はその中で「政策決定のような難しいことが分からない民衆による過度の政治参加は危険なもの」であるから、「一般の人々の役割は政策を決定する政治家を選ぶことに限るべきで、それ以上の詳細な政策決定に直接関わることは良いことではない」とする、シュンペーター主義について言及していた。これについて私は、以下のように返信した。「政治家に自由委任してしまえば、立派な、もしくは少しマシな政策判断が行われるかと言えば、決してそんなことはないでしょう。なぜなら、政策判断の主体(政治家)を選んでいるのが民衆である以上、政策であろうが政治家であろうが、さほど高尚な見識に基づいて選ばれるとは思えないからです。つまり、正しい政策選択をできない民衆は、正しい政治家選択もできない、従ってどちらにしても正しい政治は行われない、だとすれば、ろくでもない政治家に「自由委任」をするよりは、詳細な政策についていちいち民衆に判断させて、機能的でもない代りに、世の中が暴走しないシステムであった方がまだマシだ、ということにならないでしょうか?」

 民主主義はやむを得ないシステムではあるが、理想的システムではない。民主主義を支える国民の意識の高さ、理解力・思考力・洞察力の確かさが問われ、現実にはお粗末な見識を示すことが多いからである。

 以前からよく思うのであるが、「投票権取得試験」とでもいったものを実施し、法や経済についての基礎的知識を問い、合格点を取った者だけに選挙権を与えるというのが、もっとも質の高い民意をすくい取る合理的方法なのではないだろうか?社会システムについての最低限の知識さえない人が、この複雑極まりない社会の中で、大局的な政策や政治姿勢についての判断が出来るわけがないのだが、実際には、社会はそのような人たちを多数含んでいる。

 基礎的知識とは、義務教育修了までに身に付けるべき知識である。これなら中学校の卒業証書があればいいと言う人もいるかも知れないが、中学校の卒業証書が何をも保障しないことは、大学生の学力低下が語られる時に、分数計算が出来る出来ないとか、平均の概念が理解出来ているとかいないとかいったことが問題になることによく表れている。

 もちろん、そのような投票権取得試験は、実務的にもいろいろな問題があって、実施することは容易ではない。だが、これだけ多くの人が自動車の運転免許を取り、書き換えにも行くのである。必要性の認識とやる気の問題である。

 また、憲法で保障された「普通選挙」との兼ね合いもある。しかし、憲法でいくら「普通選挙」が保障され、「教育」による差別を禁じているとはいっても、同時に、「義務教育」は正に「義務」で、全員に保障されている訳だから、そこで身に付けるべきことが身に付いているかどうかを確認することが、「教育による差別=普通選挙の不保障」にはならないような気がする。義務教育の質を高めるための契機にもなるだろう。

 新聞を取るか取らないかだけでも、歴然とした意識の差が選挙に対する姿勢に表れるとすれば、都合を付けて投票権取得試験に出向く、中学校レベルの社会システムについての知識を確認する、といった僅かなハードルを設定するだけで、浮ついた衝動的な「民意」はかなりの確率で排除されるだろう。公平かつ確実に「有効民意(選挙を通して社会に影響を行使できる民意=私の造語)」の質を高める方法に思われる。国の将来を憂うならば、いろいろ困難な課題をクリアーしてでも取り組むべき作業なのではないだろうか?

 しかし、このような方法を実行することを妨げる勢力は確実に存在するだろう。それは、浮ついた衝動的な民意をこそ支持基盤として期待している一部の(?)政治家達だ。