憲法改正論私見(1)



 次の参議院議員選挙に向けて、憲法改正についての議論がかまびすしい。今までにも、憲法については何度か書いているが、この機会に、「改正」問題について多少の思う所をまとめておこう。

 まずは、「憲法」とは何か、という最も基本的な問題である。手っ取り早く標準的なところで、手元にある芦部憲法芦部信喜憲法(新版補訂版)』岩波書店、1999年)などを見てみると、憲法の実質的意味の2番として、「自由主義に基づいて定められた国家の基礎法」であり、「十八世紀末の近代市民革命期に主張された、専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想に基づく」ものと説明されている。そして、これが「憲法の最も優れた特徴」であり、その最も重要な狙いは「権力を制限して人権を保障することにある」と説かれる。他の憲法書でも、表現は異なるが、憲法とは何かということについての基本的な理解は同様である。つまり、憲法とは、国家権力を制限することで、国民に自由、平等、基本的人権を保障するためのものである。

 となると、このことが端的に書かれた現行日本国憲法第99条こそが、憲法の命だということになる。私たちは、中学校や高校の授業で、日本国憲法の特徴として、第9条の戦力の不保持や交戦権の否定、前文に書かれた国際平和主義などを習うことが多いのだけれど、それはあくまで「日本国憲法」の特徴に過ぎない。国を越えた「憲法」の普遍的性質は第99条に書かれていて、それを抜きにして前文も第9条もないのである。

 第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」

 憲法が国の最高法規だというと、最も重要な「法律」であって、それを尊重し遵守することは国民の義務のように思うが、そうではない。憲法を守るべきは、国家権力の行使に携わる公務員、である。

 だから、最近の改憲論議で、首相を始めとする国会議員、すなわち国家権力を握り憲法擁護の義務を負う側が憲法を変えようと騒ぐのは、縛られている側が解放を望むわけだから当然のことではあるけれども、一般国民の側から見た場合、極めて危険なケシカラン主張だということになる。まして、将来へ向けて改憲を容易にするために、改憲規定を定めた第96条の改正を優先的に目論むなど言語道断、であろう。

 しかし、国民は、自分たちの政治的意思を、基本的には、選挙を通して国会議員を選ぶ形で表明し、国会議員は国民の信託を受けて活動しているわけだから、国会議員が憲法改正を主張することも、あながち不埒だとは言えない。しかし、だとすれば、国会議員が憲法改正を望む程度は、国民がそれを望む程度と、最低でも一致している必要があるわけで、国民よりも国会議員の方が憲法改正に熱心だという状態は絶対に許されるべきでない。

 今年1月28日の『朝日新聞』に、昨年12月の衆議院議員選挙で当選した議員と有権者で、憲法改正その他の主要政策についての意識がどうなっているかという調査の結果が、新聞丸一面以上という極めて大きなスペースを使って掲載された。朝日新聞社東京大学谷口将紀研究室による共同調査だという。

 それによれば、憲法改正に「賛成」または「どちらかと言えば賛成」と答えた議員が89%だったのに対して、有権者は50%であった。39ポイントという差は、あまりにも明瞭な意思のズレである。程度の差こそあれ、どの政党所属議員とその支持者でも、同様の傾向がはっきりと見られたようである。国会議員の方が、一般の有権者に比べて政治的な問題意識が高いから、現行憲法の問題がより一層強く意識されるのだと考えてよいだろうか?決してよくないだろう。「憲法」とは何かということを考えると、有権者よりも国会議員の方がより一層強く憲法改正を望むという事態は、あってはならない。

 私の目から見ると、今の日本人は権力というものの恐ろしさ、理不尽な凶暴性に対して、驚くほど無頓着で脳天気であると感じられるのであるが、それでも、現行憲法の改正に慎重であるのには救いが感じられる。物事は錯綜すればするほど、それは本来どうあるべきか?という原点についての問いが必要になる。憲法に関しては、その答えが第99条にあるわけだ。この点をまず、深く肝に銘じたいと思う。