憲法改正論私見(2)



 首相は、まず憲法第96条を改正し、憲法改正の発議要件を3分の2から2分の1に引き下げ、その後で、国防軍の創設を始めとする本丸に手を付けるという2段階改憲論を強く訴えるようになっている。最近「第96条」という言葉を耳にしない日はない。

第96条「この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認は、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。(以下略)」

 国会で「安定多数」若しくは「絶対安定多数」を確保することが難しい現状で、発議に3分の2の賛成を求めるハードルは高い。「硬性憲法」と言われるゆえんである。俗に「国民投票法」と言われる法律だって、たかだか5年ほど前に生まれたばかりである。

 しかし、一昨日確認したとおり、憲法が、権力に縛りをかけ、国民の自由・権利が脅かされないようにするためのものであることを考えると、憲法は「硬性」であるに越したことはなく、権力を握る国会議員が、自分たちの縛りを解くために、安易に改正発議を繰り返すようでは困るのである。

 こんな時持ち出されるのが、これほど憲法を改正していない国は日本くらいですよ、外国では何度も改正されている国が少なくありませんよ、という論理である。2月28日の『読売新聞』に「憲法考 発議要件(1)」という記事が載り、見出しが「改正『世界では当たり前』」となっているのを見た時、私は「来た、来た」と思った。時期についての記憶が定かでないが、委員会答弁だったか党首討論でだったか、首相も、外国の憲法改正回数を引き合いに出しながら、日本だけが戦後一度も改正をしていない、と訴えていた。『読売』は、第2次世界大戦後だけを考えても、アメリカは6回、フランスは27回、イタリアは15回、カナダは18回、デンマークは1回、お隣の韓国は9回、そしてドイツに至っては、なんと59回も改正していることを紹介し、西修氏(改憲派の論客として本当によく登場しますね)の「異様、異例、異常だ」という言葉を載せている。しかし、もちろん、いいものは残せばよいに違いなく、憲法がいいか悪いかの議論を横に置いておいて、「他が変えたから」というのは変な話だ。憲法の性質が少し違うドイツについて、そのことを断ることなく比較対象としていることもフェアでない。

 先日、同僚が「平居先生、これ面白いよ」と言って、早坂隆『世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ、2006年)という本を貸してくれた。一読して、本当に納得させられ、共感を持って笑うことの出来るジョークはほとんどなかったけれども、次の話は非常によくできたものであると感心した。


「ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように、指示しなければならなかった。

 船長は、それぞれの外国人乗客にこう言った。

 アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ」

 イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」

 ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています」

 イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」

 フランス人には「飛び込まないで下さい」

 日本人には「みんな飛び込んでいますよ」」


 他の国の国民性について云々言う資格はないと思われるので、発言を控えるが、日本人については、正に正鵠を射た指摘であるように思う。日本人は、確かに、何が正しいかを掘り下げて考えることが苦手で、周りの顔色を伺いながら、相対的に物事を決定しようとする傾向が非常に強い民族なのではないだろうか?正しさよりも、その場の円満解決を求める、と言ってもよいだろう。日本全体が「村社会」なのである。そんな日本人にとって、「他の国は何度も変えているんですよ」という言葉は、なんと心揺さぶられるものであろうか。何の正当性も哲学もないにもかかわらず、人の心を強く動かすというのは、憲法の縛りを鬱陶しく思う政治家にとって、実に都合のよい言葉である。

 上に挙げた、戦後1〜59回憲法を改正している国々の改正要件は、決して低いハードルではない(翌3月1日の「憲法考 発議要件(2)」で紹介し、論じられている)。イタリアのように各議院の過半数賛成が第1ハードルという国もあるにはあるが、例えば韓国は、日本と同様に国会の3分の2+国民投票だし、「憲法考(1)」で最多の改正回数が最多とされたドイツは、両議院それぞれで3分の2以上だ。国民的合意を上手く形成しているから改正が果たされたのであろう。そのあたりを軽く流して、何回改正されたという部分だけを強調して訴えるのも「ズル」だ。とにかく憲法を変えたい、ただただその思いだけが見えてくる。

 必要なのは哲学であり、本来どうあるべきか、といういわば「絶対的思考」である。他国との比較で判断し、安易に憲法改正への道を広げてしまうことについて、国民の未熟さだから仕方がない、と言ってしまえばそれまでだけれど、やはりその愚かさは哀しい。


(補)3分の2を2分の1にすることが、権力側のすることとしてケシカランと書けば、 国民投票という最後の砦があるではないか、いくら国会議員が発議しても、国民がNOと言えば済むだけではないか、という反論はあるだろう。それは正しい。最後には国民による直接の賛成(現行法では、投票者の過半数)を得なければ、憲法は改正されない。この意味で、改憲派議員を選ぶかどうかも含めて、最終的には民意の高さが問われる問題である。民意の低さを棚に上げて、議員のすることにだけは文句を言うのもまずいだろうが、発議から国民投票までには、まやかしめいたものも含めて様々な宣伝が行われ、平時以上に何が正しいのか分かりにくい状態が作られてしまうだろうし、何より私が恐れるのは、国民の賛成が得られるまで改正発議が繰り返されることである。国政レベルではないが、受け入れる側が拒否していても、うんざりして「はい」と言ってしまうまで、しつこく提案が繰り返される、という現象を、私は何度も目にしたことがある。