憲法改正論私見(3)



 大阪市長橋下徹氏が繰り返している指摘に、憲法の自律性の問題がある。憲法には、その国の国民の自由意思に基づいて制定されなければならないという原則があるのだが、果たしてアメリカ軍統治下の日本で制定された憲法が、日本人の自由意思に基づいていると言えるのかどうか、という問題である。

 これはもともと、学説上も問題のある点で、主権者を変更する憲法改正などあり得ない、だから大日本帝国憲法天皇主権)から日本国憲法国民主権)への変更には無理がある、という主張は根強い。そこで、「8月革命説」なる学説が登場し、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行は「改正」ではなく、「革命」による新たな憲法の制定であったとされるようになった。確かに、「革命」という言葉のもともとの意味(天命=(天という欧米の神とよく似た存在が下す命令=政治的権力)のありかを革(あらた)める)からすれば、主権の交代は「革命」である。しかし、御前会議において、天皇の名の下に、戦争の終結ポツダム宣言の受諾)が決定された→ポツダム宣言には日本が民主的で、基本的人権の保障された自由主義国家となるという条件が含まれていた→ポツダム宣言に従う形で日本国憲法が制定された、という流れを見てくると、武力闘争を思い起こさせる「革命」という言葉よりは、天皇が国民に主権を譲り渡した「禅譲」というイメージが強い(私は「8月禅譲説」を主張・・・笑)。いずれにしても、大日本帝国憲法第73条に書かれた改正要件(「将来この憲法の条項を改正する必要ある時は、勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし」)と矛盾する制定過程を経たとは思われない。

 むしろ問題なのは、実際の制定過程で、日本側が提出した「憲法改正要綱(松本試案)」がGHQによって拒否され、GHQから提示された「マッカーサー草案」の受け入れを余儀なくされた点にあるだろう。松本試案が、ポツダム宣言の内容に沿っていなければ、それは拒否されて当然であって、むしろ、宣言の内容を理解しきれないままに調印をしたことこそが問題となるのだが、敗戦という自然的帰結によって、日本人の精神構造や思想が激変したり、政治思想や歴史についての知識が突然増えたりはするはずがないのだから、民主主義の大先輩である占領軍の指導無しに民主的な憲法を制定することなど、出来るはずがなかった。この時の、マッカーサー草案づくりに関わった人々の意識については、かつてこのブログでも少し触れたことがある(2013年1月3日)のだが、戦後の日本人は、日本国憲法を通して民主主義の何たるかを少しずつ学び、草案を作ったアメリカ人の意識にどれだけ近づけるかを問われてきたのではないだろうか、と思う。

 さて、昨日問題にした2月28日の『読売新聞』は、「日本維新の会 橋下徹・共同代表に聞く」という大きな(ほぼ1面)インタビュー記事を載せている。その中で、元弁護士である橋下氏は、「憲法という国家の一番重要な法規範が、アメリカからの押し付け憲法論を持ち出すまでもなく、生まれるプロセスにおいてすっきりしない、プロセスに疑義があるというのはが、僕は法律家として納得がいかないんです」「法規範というのものは、民主国家においては、どう作られたのかというプロセスが最も重要であって、そこの疑義を棚に上げることはできません」と語っている。

 正当なプロセスで決まったことは、内容・性質に関係なく非常に強い拘束力を持って当然という橋下氏の日頃の姿勢が透けて見えるが、この話自体は決して間違っていない。「やってることと言ってることが違うのでは?」と言いたくはなるものの、インタビューの中で語られている橋下氏の憲法理解も基本的に正しいと思う。しかし、上の主張に容易に納得できないのは、憲法を改正することで、制憲過程に関するもやもやを払拭したいというだけではなく、やはり改正に際して今の憲法の手直しを目論んでいるからであり、「決定する政治」や「内閣法制局による9条解釈によって、国家の進むべき道が縛られている」(引用出来る形に本文改)といった言葉に、非常に危険なものを感じるからであろう。

 橋下氏は、第96条改正を先行させると主張する理由として、「今の段階で憲法の中身を議論すれば3年や4年はかかる。ところが、今の選挙制度を前提とすると、憲法改正を是とする政治勢力が衆参両院それぞれにおいて3分の2以上の議席を確保し続けることは大変難しい」と語っている。これはおかしな話だ。憲法改正の内容が、本当に多くの人に支持される合理的なものであるなら、憲法問題限定の連立(合意)も含めて、3分の2が確保できなければおかしい。小選挙区制の下で、ばくち的な偶然によって得られた改正のチャンスを逃さない、という発想に立った時のみ、この発言が理解できる。橋下氏は、発議要件を下げて憲法改正を現実のものとすることで、真剣な責任ある憲法論議が可能になると言うが、本来は逆であろう。3分の2が賛成するような憲法案を作ろうとすることでこそ、真剣で責任ある議論は可能になるはずである。このような点も、私が彼の主張に素直に同意できない原因である。

 多くの人が言うとおり、自衛隊は軍隊である。憲法解釈と裁判所の責任回避(統治行為論)によって、第9条があっても軍隊を持てるのに(と書けば、私は自衛隊廃止論者のようだが、実はそうではない。私も自衛隊をやむを得ない存在だと思っている。ただし、今の規模や活動内容が適正かということは別問題)、拡大解釈によって憲法を現実に無理矢理合わせている状態はすっきりしない、それを解消することが改憲の目的だと言って、この軍隊を憲法上正当なものにしてしまえば、そこから更に拡大解釈が為されて、何が起こるか分からない。私はそれを予感しているのである。集団的自衛権の行使など、憲法で認めた日には、それがどこまでエスカレートするか、まるで見当が付かない。戦後政治は、私にそのような疑念を抱かせるだけの実績を積み重ねてきたのではないか?それなら、努力目標として現行憲法をしっかり掲げた上で、やむを得ない部分についてのみ運用上の解釈をして対処した方が余程よい。改憲論者は、多分、それだけでは満足できない、ということなのだろう。

 中身がよければそれでいい、というわけには行かない場合もある(こちらが原則)。一方で、そう考えた方がいい場合もある。制憲過程のもやもやを払拭するといってナショナリズム的心性を刺激し(←実はここが非常に重要。おそらく、「押し付け憲法論」を始めとする制憲過程への疑義は、全てこれが目的ではないか?と私はにらんでいる)、更には、国民の多くに賛同が得られる規定に気を引き付けておいて、こっそり恐ろしい罠を仕掛けられることの危険に比べれば、制憲過程のもやもやなど取るに足りない問題だと思われる。