「変えない」は積極的選択だ



 まずは、6月11日に行われた「党首討論」における石原慎太郎氏の発言。

「どの国の憲法も自主的に制定され、何度も自主的に改正しているのが世界の常識だ。首相はどう思うか。」(6月12日『読売新聞』より)

 もちろん、氏の言いたいことは、「アメリカに押し付けられた憲法を、一度も変えずに守り続けている日本は非常識であって、一刻も早く憲法改正をしなければならない」ということであろう。

 方便であるかも知れないが、非常に稚拙な意見である。わざわざ説明するまでもないと思うが、一応確認しておくと、大切なのは憲法が内容的に良いか悪いかであって、他国がどれだけ改正しているか、という問題ではない。多数であることが「常識」であるという発想は、間違いであると同時に非常に危険だ。周りの状況を伺うことが優先し、何が本当に正しいのか考えることを止めることになってしまう。(かつて書いた関連記事→こちら

 日本国憲法アメリカから押し付けられたかどうかは意見の分かれるところだろう。だが、憲法には改憲手続きが規定されていて、多くの日本人が変えたい、変える必要があると考えた時には、変えられるようになっている。その上、改憲を党是とする自民党が、戦後の圧倒的に長い時間、与党として政権を握ってきたにもかかわらず、改憲は実現してこなかった。このことは、日本人が積極的に憲法を変えようとしなかったことを意味する。その状態が、少なくともサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を回復した1952年以降60年以上続いているわけだから、憲法アメリカによる押し付けかどうかということも既に問題にはならないだろう。いきさつはどうであれ、日本人は、日本国憲法を自分たちのものとして認め、守ってきたのである。

 石原氏の考えは、現行憲法を変えたいという気持ちが強くありすぎることで、「変えない」という選択が、積極的選択ではなく怠慢にしか見えない、というだけのことだ。憲法を積極的に「変えない」ことを批判するために、憲法の内容ではなく、他国の動向を持ち出し、多数=常識という論理で心細さを煽るのは稚拙であり、姑息である。

 石原慎太郎という人は、一橋大学法学部を卒業し、芥川賞を受賞した作家で、都知事を4期も務め、大臣歴さえある。決してバカではないはずで、知識も思考力も相当高い水準にあるはずだ。私が本当に不思議なのは、そんな人が、どうして真面目にこれほど稚拙な議論をするのか、どうして思想と言うより感情や宗教的信念とも言うべき動機に基づいて生きようとするのか、という問題なのである。宗教的というのは論理が通用しないということだ。

 極めて学力の低い高校生などと接していると、目前のこと、今の自分のことしか考えられず、意見が感情的・衝動的であることに愕然とするのだが、不思議なことに、赫赫たる地位と経歴を持つ石原氏の意見や議論と、超低学力の高校生の意見・発言はかなり性質が近い。私は、冷静に真偽を見極め、掘り下げて思考し、自由と平等を重んじる社会を実現させるために必要だからこそ、勉強はしなければならないと考えているのだが、勉強した先にあるものが、勉強などまったくしない高校生と同じレベルの世界だとすれば、勉強とは一体何なのだろう?世の中はますます模糊として得体が知れない。