「幸せ」の絶対評価



 昨日引用したような文章を読んで私が何を感じるかと言えば、もちろん、まずはその悲惨さに胸が苦しくなる。だが、次の瞬間、もう少し冷静になると、自分がその餓死者たちの境遇であった場合のことを想像してみる。もちろん、そこにいるのは全く無力な自分だ。自然の猛威と、もともと財産がないという出自と、自分の上にのしかかる不条理な権力に対して、何のなすすべもなく、彼らと同様に飢えに苦しみ、力尽きていくに違いない。

 そう思うと、今私が、食べることに何の不自由もなく、人から「先生」と呼ばれながら、趣味道楽にそれなりの時間もお金も費やすことができ、子どもたちの健やかな成長を喜んでいられるのは、95%くらいは「運」のおかげであると言える。いや、残りの5%が努力だとして、その努力も「運」に支えられて可能になっているとすれば、全ては「運」に恵まれたからなのである。この場合の「運」とは、もちろん、宝くじが当たるとか、特殊な才能を持って生まれた、ということではなく、今の時代にこの場所に生まれた、という「だけ」のことである。

 こう考える時、今の自分の生活というものが、なんとも贅沢にありがたい、奇跡のような幸せに満たされたものであると思われてくる。田舎の水産高校で三流教師をやっていて、大衆車に乗り、グリーン車ともファーストクラスとも縁が無く、「すきやばし次郎」で寿司を食べることも一生なく、平凡な妻子に囲まれて、日々淡々と生きているだけだが、本当にこれ以上何も要らない、今持っている物の大半も、無ければ無いで構わない、と思う。

 というようなことを書いてきたのは、一昨日の「環境問題」との関係で、狂気のように「豊かさ」を求め、「需要(=欲望)を掘り起こす」と言って、人のために何かをしていると錯覚しながら業務を拡張し、自分たちの首を絞めながら地球を汚す、ということについての反感があるからである。

 「上を見ればキリが無く、下を見てもキリが無い」というのは消極的なあきらめの表現だろうが、下を見ることで自分の幸せを意識することは、決して間違いではない。しかし、一歩間違えて上を見ると、自分が惨めに思われ、自分の現状の満足すべき点に目を塞いでしまうことになる。大切なのは相対的思考ではなく、絶対的思考である。それは、今の自分や他人と比べるのではなく、裸の自分にできること、という原点との比較で生きるということだ。私の今の境遇は、社会的なシステムに守られている部分が大きい。生きるために不可欠な食糧生産のノウハウと資本は持っていない。裸の自分には、生きていく能力が無いのである。その原点に照らせば、住む場所があり、食べることができ、命の不安にさらされていないことは、それだけであまりにも幸せである。

 「知足安分(足ることを知り、分に安んずる)」という言葉は、上位者が下位者にその境遇を納得させ、下克上を許さないための身勝手な倫理に過ぎない。だが、そのような歴史的文脈を離れて、素直に言葉に向かえば、たいへん立派な理念であると思われてくる。足ることを知らない世の中を見ていると、その感は強い。「環境問題」を克服して命を繋ぎ続けていくためには、幸福の概念を変えてゆくことがどうしても必要だ。飢餓や戦争の記録を読み、その場にいる無力な自分を想像することが、私にとって幸福の理念を狂わせないための重要な方法なのである。