悔しく憤ろしいパレスチナ

 先週はストレスの溜まる一週間であった。仕事ではない。ニュースで繰り返し目の前に突きつけられるガザの惨状、国連の無力、その原因となっているアメリカのふがいなさといったものに、なんとも耐えがたい思いを抱いていたのである。
 とはいえ、そのガザの惨状は正に対岸の火事であって、胸を痛めてはいても何もできない。そのことがなおのこと自分自身をいらだたせる。
 今に始まったことではない。ユダヤ人とアラブ人との対立なんて、少なく見ても70年以上にわたって続いている。私もかつて、自分がパレスチナ問題を深刻に受け止めるきっかけになった出来事について(→こちら)や、戦争そのものの性質について(→こちら)など、何度か書いたことがある。イスラエルパレスチナの対立について考えることは、基本的にそこに書いてあるし、その後も変わっていないので、まずはそちらをご覧いただきたい。
 正義はアラブ人(パレスチナ)にある、と私は思っている。ポグロムホロコーストに代表されるようにユダヤ人は常に迫害にさらされてきた。そのことは大いに同情に値するが、約2000年前の領有権を主張されても困る。苦しみを知っている人たちには、他人の苦しみに対しても敏感であって欲しい、とも思う。迫害されてきた人々が、平気で人を迫害するのを見ると、人間というものに対して絶望的な気分になる。
 イスラエルの後ろにはアメリカが控えている。日米関係をはるかに上回る強い結びつきだ。したがって、上で紹介した記事にも書いたとおり、ユダヤ人とアラブ人の戦争は、あまりにもはっきりと結果が見えている。困ったことに、戦争は正しい方ではなく、強い方が勝つ。いくら正義がアラブ人の側にあったとしても、彼らは勝てない。悔しさは何倍にも膨れあがる。私はその思いを想像しては苦しい。
 ま、いいか。私たちも含めて、どうせ近々人類は滅びるのだから・・・。