飢餓の記録



 学術上の必要から、最近パラパラと読み直していた本の中から、印象的な飢餓の記録を引用しておこう。世の中には様々な悲劇がある。戦争の悲劇などがたくさんの人々によって描かれている一方、飢餓の記録というのは珍しい。私がなぜこんなことをするかというのは後回しだ。また、この中には、飢餓だけではなく、地主や官僚による「搾取」という問題も含まれていて、それがやや問題を複雑にしてはいるのだが、とりあえずそれは横に置いておこう。

 一つ目は、エドガー・スノー『中国の赤い星』(松岡洋子訳、筑摩書房、原著1937年)である。


「ほぼ3年つづき、4つの大きな省をおそった西北の大飢饉のさなかであった1929年6月、わたしは蒙古との境の綏遠の旱魃に、痛めつけられたいくつかの地方を訪れたことがある。どれほど多くの人びとがこの数年の間に餓死したか、わたしは正確には知らない。おそらく誰も知ることはないであろうし、今日では忘れ去られている。300万という半官的なひかえめな数字が大体認められているが、しかし600万にも上るという他の統計をわたしは疑おうとは思わない。(中略)

 わたしは23歳であった。“東洋の魅惑”に魅かれて、冒険を求めて東方に来たのであった。綏遠への旅行もそうした気持ちで出発したのである。しかし、ここでわたしは生まれてはじめて、突如として何も食べるものがないために死んでいく人びとに出会った。綏遠で過ごした悪夢の何時間かの間に、わたしは数千に上る男、女、子供が目前で餓死していくのを見た。

 一生懸命働き、“法律を遵守する市民”で、他人に害を与えたことのない善良な男が1月以上も食べるものがない状態にあるのを諸君は見たことがあるだろうか。それは最大の苦痛を与える光景である。死に近づきつつある肉体は皺のよったひだをなしてたれ下がり、骨の一本一本をはっきり見わけることが出来る。両眼は見開いたまま、何も見ず、たとえ20歳の青年であっても、老いさらばえたしわくちゃの婆さまのように、身体をひきずってうごめいている。もし彼が幸運であったなら、とうの昔に妻と娘たちは売ってしまっていただろう。また持ちものすべて ―― 自宅の材木から衣服の大半も含めて ―― 売り払ってしまっていた。時には礼節を守る最後のぼろ布までも売ってしまい、焼けつくような太陽のもとでふらつく彼の睾丸はしぼんだオリーブの種のようにぶらさがっている ―― 彼がかつては男であったことを想起させる最後のむごい戯れであった。

 子どもたちはさらに哀れで、小さな骸骨は前かがみにゆがみ、骨は畸形に曲がって、小さな腕は細い枝のようになり、紫色になった腹は木の皮や木屑でふくれ、腫瘍のように突きでている。女は死を待って隅にうずくまり、黒い扁平な尻を突き出し、乳房はつぶれた袋のようにたれ下がっている。しかし、女や娘は多く見かけない。大部分は死んでしまったか、売られてしまったのである。(中略)

 しかし、これらがもっとも驚くべきことではなかった。驚いたのは、これらの町の多くに依然として金持ちや米退蔵者、麦退蔵者、高利貸しや地主どもがいて、武装した護衛に守られて、暴利をむさぼっていたことである。」


 二つ目は、マーク・セルデン『延安革命』(小林弘二、加々美光行訳、筑摩書房、原著1970年)である。ただし、これはセルデンの見聞ではなく、セオドール・ホワイトが1944年に飢饉の最中の河南で見聞きした光景を記録したものの引用である。


「わたしたちが見た農民たちは死にかかっていた。かれらは道ばた、山中、鉄道の駅の傍ら、土造りのあばら屋で、また田畑で死にかかっていた。そして彼らが死ぬ段になっても、政府はかれらから、可能な限り最後の一滴まで税金を絞りとりつづけた。どこの県の政府も、農民が自分の土地から得た穀物以上の現物税を要求していた。いかなる容赦も許されなかった。ニレの樹皮と乾燥葉を食べていた農民たちは、種まき用穀物の最後の袋さえ収税事務所にひきずって行かなければならなかった。農民たちは歩くのもやっとという位に弱っていたが、それでも軍馬のためのかいばを集めねばならなかった。そのかいばでも、農民たちが自分の口に詰め込んでいるきたならしい食い物よりもっと滋養分が多かった。税を払うことの出来ない農民たちは、否応なく窮地に立たされた。かれらは家畜、家具そして土地さえも売って課税分に見合う穀物を買うために金を工面したのであった。何にもましてぞっとさせられることの一つに、土地投機の騒動があった。西安および鄭州からきた商人、政府小官僚、軍将官、そして食べる物がまだある富裕な地主たちは、犯罪的に低い値段で農民たちの父祖伝来の土地を購う仕事に従っていた。」