根は「新日米安保」にある



 以下は、23日に砂川判決について書いた「続き」に当たる。

 その過程で、我が家にある憲法関係の本をあれこれめくっていたら、佐藤功日本国憲法概説(全訂第3版)』(学陽書房、1985年)で、砂川判決に続いて日米安保が取り上げられているのが目に入り、ついつい読み耽ってしまった。そして、あまりメディアで取り上げられないので忘れかけていたが、確かに、今回の新安全保障法案の根っこの所に、1960年に締結された新日米安保条約があるのだ、との思いを深くした。なぜ人々はそのことをもっと問題にしないのだろう?

 1951年に締結された旧日米安保条約は、固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない(つまり軍隊がない)日本に対する武力攻撃を阻止するために、日本が米軍の駐留を希望するというものであった。つまり、アメリカが日本を守るだけで、日本はアメリカに対して軍事上の義務を負わない。軍隊を持っていないのだから当然である。

 一方、1960年に締結された新条約は、日本における日米いずれか一方への武力攻撃について、「自国の平和および安全を危うくするものであることを認め、共通の危険に対処するように行動することを宣言する」と定めている。共同の軍事行動を意味していることは明白である。警察予備隊の発足が1950年で、それは1952年に保安隊となり、1954年に自衛隊に改組されている。新条約の時に、日本は既に事実上の軍隊を保有していた。

「改定の中心は、この条約の片務性・不平等性を解消して、双務性・対等性を有するものたらしめようとすることにあった。(中略)しかし、双務性・対等性を強調するならば、米国が日本の防衛を義務づけられるとともに、日本もまた米国の防衛に寄与しなければならないことになる。そしてそれはこの条約がさらに一層明確に相互防衛条約・軍事同盟条約的な性質をもつべきことを意味する。その場合にはまた日本の防衛力のさらに一層の増強を必要とすることとなるであろう。このように、安保条約の改定の方向は、第9条との関係をさらに緊張せしめることとなったというべきであった。」(佐藤前掲書)

 この時に曖昧にされていた部分について、安倍政権は「解決」を目指しているに他ならない。

 思えば、GHQの指導によって日本国憲法が成立したのは確かだが、その戦争放棄・平和主義の理念を脅かすような警察予備隊の設立を促したのもアメリカであった。新安保条約は、10年ごとに自動的に更新され、現在も効力を持っている。新安保条約に付帯する日米地位協定により、在日米軍にはざまざまな特権が与えられているほか、「思いやり予算」と呼ばれる2000億円近い支援も行われている。

 安倍晋三という人は、言うまでもなく強固な改憲論者である。憲法を改正しなければならないとする根拠として、三つの理由を挙げる。その一つ目は、原案が占領軍の素人によってごく短期間に作られたということであり、三つ目は、新しい時代を切り拓くためには、日本人自らの手で書き上げることが必要だ、ということである(首相の公式HP。二つ目は、プロセスの問題ではないので省略)。つまり、いわゆる「押しつけ憲法論」と言ってよい。ここだけ見れば、アメリカの影響を脱して、日本人独自の国作りを目指しているようだが、上に書いてきたとおり、それは全く当たらない。アメリカが自分たちの都合によって、軍隊のない国作りを目指させたり(憲法)、軍事力を増強させようとしたり(警察予備隊の設立以降)してきたうち、前段を否定し、後段を強化しようとしている訳だ。その一貫性は明瞭である。軍事力の増強であり、力による支配への指向だ。そして、その出発点は新安保条約なのである。

 新安全保障法案を、安倍政権の思い付きと言うには、あまりにも根が深い。現法案の成立を阻止することは絶対に必要だが、本丸である日米安保についても、改めて目を向けなければならないのではないか。


(参考)憲法の制定に関するこのブログの過去記事→「憲法の成立について」、「憲法を変えずに来たことについて