やり方を間違えないように祈る・・・JR北海道について



 JR北海道の不祥事は言語道断、これほどの事が起こるのか、と驚きながら見ていた。しかし、今日こんなことを書き始めたのは、JR北海道を糾弾するためではない。そんなこと、今更私が言うほどのことでもないだろう。

 私は非常に心配しているのである。それは、不祥事が起こると、たいていの場合、それをシステムの問題として管理体制を強化し、煩雑な事務を増やす形で解決させようとすることが多い、ということだ。そのやり方は分かりやすい。だが、それが果たして根本的な解決になるだろうか?ミスをした時に、それを規則や管理によって防止しようとすれば、想定されるあらゆるミスについての規則が必要となるし、一度規則を定めれば、その規則が守られているかどうかのチェックが必要となり、組織としての負担は大きくなる。現在、学校でも「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」ということがうるさく言われるが、そうやって管理すればするほど、各自がまじめに考えることを止め、責任逃れと犯人捜しの風潮は強まり、規則さえ守っていればあとは何をしてもよいといった体の横着も増える。堕落と管理はいたちごっこをするのである。

 既に一昔前の話となるが、「ぽっぽや(鉄道員)」(原作は浅田次郎集英社)という映画が大ヒットした。北海道にある幌舞というローカル線の終着駅で、45年間も駅長を務めた乙松という人物が主人公だ。乙松は職務に忠実なあまり、妻の死に目にも立ち会えず(立ち会わず)、娘が死んだ時にも、ホームの雪かきをしていた。妻が死ぬ時には、同僚の奥さんが何度も危篤の知らせをしたのに、乙松は駅の灯りを消してから、ようやく最終列車で病院に駆け付けたのだった。妻の遺体を前にしても涙を流さない乙松をなじる同僚の奥さんに、乙松は「俺ぁ、ポッポヤだから、身内のことで泣くわけにはいかんしょ」とつぶやく。定年を間近に控え、「一番つらかったことは何か」と問われた時、乙松は娘の死も、妻の死も語らなかった。「ポッポヤ」としての乙松が一番悲しい思いをしたのは、集団就職の子供たちをホームから送り出すことだった。このことについて、作者は次のように書く。「ポッポヤはどんなときだって涙の代わりに笛を吹き、げんこの代わりに旗を振り、大声でわめく代わりに、喚呼の裏声を絞らなければならないのだった。」と。

 もちろん、ここに描かれたあまりにも愚直で非情な乙松の行動は、鉄道を守る人間の極めて強い職業的使命感と誇りとに基づいている。思えば、昔は「国鉄マン」という言葉もよく聞いた。巨額の赤字を垂れ流し、親方日の丸で仕事をするというイメージは微塵もなく、列車の運行に誇りを持って取り組んでいる男の、凜とした雰囲気の漂う言葉だった。こんな人たちは、手抜きをしないのは当然のこと、規則やマニュアルがなくても、ミスを犯す確率は非常に低いし、仮にミスをしても、大事に至ることがない。

 JR北海道が持っていなかったことが問題なのは、社員を厳格に管理する規則やマニュアルではなく、このような使命感とプライドなのである。これらは、管理をすればするほど失われていくものだ。自分たちの仕事が社会的にどのような意味を持つのか、鉄道輸送とはどうあるべきなのか、といった哲学的掘り下げの中でこそ生まれてくるものである。

 こう書けば、ひどく迂遠で漠然としていて、面倒なことに思うかも知れない。確かにそうなのだ。しかし、昔はこれがごく自然に先輩から後輩へと受け継がれていたのである。それが途切れた時に、初めて意識的な思考が必要となり、それには大きなエネルギーと時間とが必要になる。だからといって、管理という方法に走ることは安易である。長い目で見た場合、確実にマイナスになる。

 繰り返す。JR北海道がしなければならないことは、規則や管理の強化ではなく、使命感と誇りとを社員に生み出させることである。いくら大変でも、それをしなければ、それを実現させるための方法を考えなければ、問題は手を変え品を変え生まれてくるだろう。落ちるところまで落ちたのだから、この正念場でそれに挑戦し、克服することで、現に悪しき道を進んでいる学校、公務の世界や、多くの会社に新しい光を照らしてくれれば、「不祥事」にも価値あり、ということになるのだが・・・。


(注)この記事には問題があります。記事を書き換えることはせず、補足訂正のような記事を11月4日に書いたので、そちらを参照して下さい。