ゴッホは造形美術家である?



 先日シャガールについて書いたついでに、なんとなく「絵画シリーズ」で、ゴッホについて書いておこう。宮城県美術館の特別展は、シャガールの前はゴッホだった。とはいえ、私は行っていない。これも相当に心引かれていたのだが、なかなか時間が取れず、時間が取れると思ったら日曜の午後か何かで、ちょうど一番混んでいる時間だから、またそのうちにしよう、などとと思っているうちに終わってしまった。これは美術展を見そびれる時の、典型的なパターンだ。

 私はゴッホ小林秀雄で出会った。だから、最初は絵ではなく文字である。私が中学高校時代を過ごした町が倉敷に近かったので、初めてゴッホの本物を見たのは大原美術館だった。ガルニエ宮シャガールに度肝を抜かれた数日後、アムステルダムゴッホ美術館に行った。先日の宮城県美術館ゴッホ展は、ここの所蔵作品が中心だったはずだから、行っていたら、かつてアムステルダムで見た多くの作品に再会できたのに、と思う。これもなかなか素晴らしい美術館で、感動を持って相当数のゴッホを見ることができた。この時、なんだか私なりのゴッホ観は得たような気がする。

 たしかに、ゴッホは、色彩、線、構図といったごく一般的な絵画の要素で見ても、それなりに魅力的な画家だと思う。有名な麦畑にしても、ヒマワリにしても、自画像にしても、近現代の芸術家に不可欠な「個性」の輝きがあふれている。しかし、私がゴッホを少し特殊な画家だと思う原因は、少し違うところにあるようだ。

 私にはなんだか、ゴッホは画家ではなく、造形美術家、すなわち彫刻家に近い存在のように思われる。ゴッホの絵を前にした時、私はその筆遣いに目を引き付けられるからだ。

 絵画というのは、少し離れた位置から鑑賞するものだ、とは、小学校の図工の時間に言われたことだったか、母親当たりから教えられたことだったか定かでないが、かなり一般的な絵画鑑賞のセオリーなのではないか、と思う。しかし、ゴッホの絵に向かい合っていると、私は自分の立ち位置がだんだんと絵に近づいて行き、遂に視界から絵がはみ出、絵が何を描いているのだったか把握できないような場所で、ゴッホが描いた一筆一筆の絵の具の起伏を見つめていることに気付く。あののたうつような筆遣い、もりもりと盛り上がった油絵の具。そこにこそ、ゴッホの狂気のような情念がメラメラと燃え上がっているように感じるのだ。ゴッホの絵は平面ではなく、立体である。

 1889年に描かれた有名な自画像のひとつは、背景が唐草模様のような線で描かれている。見えているはずのない線である。なぜそのような模様を描いたのか?他にも、ゴッホの絵には、糸杉の道であれ、オリーブ林であれ、麦畑であれ、非現実的なくねくねと曲がった線が多用される。その曲線は、彼の筆遣いを大きく増幅させたものにも見えるし、そのような曲線を描くことが、自分ののたうつ筆致を生かすことを知っていたからだ、とも思える。

 世間では、ゴッホと言えばヒマワリの絵が有名で、そのためか、ゴッホが最も多用した、もしくは、愛用した色は黄色であるかのように思われているようだが、私にとって最も印象的なのは、メロン色である。この色自体が、普通の画家があまり使うことのない珍しい色だということもあり、それでいて意外に美しい色だということもあるが、この明るい色は、彼の筆致をとても見やすくするような気がする。つまり、メロン色で分厚く油絵の具が塗られている場所は、ゴッホという画家の造形芸術家的な要素を最もはっきりと見せてくれるようだ。

 絵に額を寄せて、燃え上がる情念に目を凝らして何になるだろう?おそらく、それは、私が小林秀雄で文字によってゴッホを知り、徹底的に「自分」というものにこだわり、向き合い、最後には精神を破綻させて死んでしまった画家、というゴッホ像から逃れられず、そのゴッホ像を絵を通して確認するために絵に向かう、ということをしてしまわざるを得ない結果なのだろう。そんな鑑賞の仕方を楽しいと思わないにもかかわらず、なんとなくしてしまうのは、ゴッホと同じ狂気の芽が、自分自身にあるということなのかな、と、少し不安めいた気分になる。