宮城丸で石巻へ(1)



 船に着くと、生徒はよく分からないが、指導教員は歓迎してくれた。夕食も残しておいてくれていた。O君がインスタント味噌汁を作ってくれた。

 ひとしきり実習中の話を聞いた後、シャワーを浴びて寝た。部屋は、気仙沼向洋高校専攻科の生徒が下船したために空室となった二人部屋である。ライフジャケットを枕に、持参したシュラフカバーに潜り込む。発電エンジンの音と振動がなかなか激しい。船が洋上を走っていて、適度に揺れていれば気にならないのかも知れないが、停泊中だとひどく気になる。その上、エアコンが強烈に効いている。困ったことに、部屋毎に調節できない。ただの布に過ぎないシュラフカバーだけでは、寒くて仕方がない。ついに、荷物の底からツェルト(山で緊急時に使う簡易テント)を取り出した。5時半起床ですよ、と言われていたが、目覚ましを持っておらず、我がクラスの担任に起こしてくれるよう頼んではおいたものの、起きるのに人の手を借りるのも申し訳ないなぁ、などと思いながら、眠れない夜を過ごしていたところ、ざわざわと物音が聞こえ始め、時計を見ると既に5時15分になっていた。

 6時から朝食。驚くほど短時間で終了。生徒は7時に甲板集合とのことだったが、私はメインエンジンの始動が見たかったので、6:50にエンジンルームに下りた。2人の機関士と5人の宮水専攻科生が作業に当たる。何をやっているのかはよく分からなかったが、いくつかの手順を踏んでエンジンは気持ちよく動き始めた。発電エンジンだけでもうるさいので、メインエンジンが動いたらどれほどの音になるのだろう、と相当な覚悟をしながら身構えていたが、メインエンジンの音は発電エンジンの音よりもずっと静かで、エンジンルーム内の音が大きくなったような気さえしなかった。

 機関長からいろいろな話を聞きながらモニターを眺めていたりしていたが、ブリッジからクラッチを入れるよう電話があったので、いよいよ出港だとブリッジに駆け上がった。私がブリッジに着いて間もなく、船は静かに離岸した。出港は7:30。見送りに来てくれた気仙沼向洋高校の2人の先生と2人の生徒が岸壁で手を振っていた。

 ところで、私が今回、気仙沼から宮城丸に乗った理由として、もちろん、昨日書いたとおり、実習船の船内生活を垣間見てみたかったとか、宮城丸で少しまとまった距離を航海してみたかったというのは本心であるが、必ずしもそれが全てというわけではない。宮城丸であるかどうかにかかわらず、気仙沼石巻を船で移動するというのはなかなかできないことであり、なかなかできないことは体験として新鮮である。かつて、三陸沿岸に定期航路が発達していた時代の「歴史」を追体験してみたい、という思いもあった。

 例えば、高村光太郎が昭和6年(1931年)8月に三陸地方を旅行をした時、光太郎は女川〜気仙沼〜釜石〜宮古を船で北上している。もちろん定期船だ。三陸リアス式海岸に道路を通すのは容易でなく、おそらく当時は、少なくとも長距離の場合、バスよりも船の方が移動手段としては一般的だったのではないかと思う。光太郎はその時の日記的な紀行文を、旅行から2ヶ月後に『時事新報』という新聞に発表しているが、それによれば、女川で15時の船に乗り、気仙沼に着いたのは19時半だ。途中はどこにも寄港していない。今回の宮城丸は、光太郎とは逆の南下ルートではあるが、そんな昔の三陸の旅に思いを馳せてみる絶好の機会でもあったのだ。

 さて、船は陸地と大島との間の狭い海峡を10ノット(約18.5キロ)以下のスピードでゆっくりと進む。後から大島と気仙沼を結ぶフェリーが付いて来ている。レーダーで監視している上、舳先には一等航海士が自ら立って警戒している。湾内を航行する時は、どんな障害物や小さな船がいるか分からないので、このような監視体制を取る、ということだった。空はどんよりと曇り、あちらこちらに霧の固まりがあって、場所によっては見通しが1マイル弱(1.5キロ)くらいまで落ちるという状況でもあったし、専攻科生を当直の一人として常にブリッジに立たせているという、練習船ならではの教育的事情もあるのかも知れないが、宮城丸のブリッジで周囲に気を配る航海士のぴりぴりした雰囲気を間近に感じていると、日本の各地で時々起こる船と船との衝突事故というのが、私には信じ難い出来事に思われてくる。

 もう少しで外洋に出るという時、左側から一隻の船外機付き和船が近付いてきた。手を振っている。昨日まで宮城丸に乗っていた気仙沼向洋高校専攻科の生徒で、家が大島にあるそうだ。約60日間一緒に生活した仲間を見送るため、自宅の船で出て来たらしい。宮城丸の乗組員も嬉しそうに手を振り返していた。船で生活を共にした人たちの、何とも言えぬ強い仲間意識を感じた。(続く)