祈り…京都・奈良家族旅(2)

 昨日、今回の旅行で、私が最も感銘を受けた「美」は唐招提寺であったと書いた。次に印象に残ったのはどこか、と言うと、それは東本願寺と宇治の平等院であった。
 京都駅前という地の利もあって、東本願寺は中学時代以降、何度となく訪ねている。3年前に京都を訪ねた時、東本願寺は大修理の最中で、大きな上屋に覆われていて見ることができなかった。今回、面目を一新した東本願寺を見て、改めてその壮大さと均整の取れた姿、日本的に緩やかな屋根の曲線を美しいと思った。奈良の大仏殿が巨大だとは言っても、その作りが力任せ、ただ大きいだけで雑であると感じるのに対して、東本願寺には、小さく繊細な工芸品をそのまま巨大化したような抜かりのない「美」がある。
 こんな建物を、クレーンのような重機を持たなかった昔の人はどのようにして建てたのだろう、という素朴な疑問がやはり浮かぶ。あの巨大な柱を1本立てるだけでも、非常に深い知恵(技術)が必要であると思われる。梁を載せる作業は更に困難だろう。よく、エジプトのピラミッドがどのようにして作られたかということが世界の七不思議の一つとして語られるけれども、いかに巨大とは言え、石を下から順に積み上げて作るピラミッドは、作業としては単純であろう。東本願寺を始めとする、奈良や京都の巨大木造建築の方が、はるかに不思議の感は強い。巨木を山の奥から切り出してくることも、巨石を運んでくることの困難さに勝るとも劣らない。「文明」を手に入れた現代人も昔の人には決して追いつけないのだ、という思いを新たにした。

 私がかつて平等院を訪ねたのは、1975年の春ではなかったかと思う。その時は、いかにも古さびた、思いの外に小さな寺院だという印象だけがあった。いや、「ああ、確かにこれが十円玉のデザインとなった建物だ!」というだけの感慨だったかも知れない。
 事前の予習もせずに訪ねて、あまりにも新しい建物であることに驚いた。聞けば、2012年から平成の大修理が行われ、2014年に完了したということだった。つまりは、リニューアルされたばかり。なるほど新しく見えるわけだ。
 年末のすす払いだとかいうことで、鳳凰堂の内部には入れなかったが、すぐ隣にある鳳翔館という博物館が周逸。博物館嫌いの私が、ここは本当にいいスペースだと思って、小さな博物館であるにもかかわらず、1時間近い長居をした。小学生である子供たちも、退屈して大騒ぎということにもならず、神妙な顔をしてじっと展示に見入っていたのだから、展示物(映像含む)がよほど力を持っていたのだろう。
 その中で、文句なしに面白かったのは、平成の大修理を追った10分あまりの映像である。作業の工程と復元のための努力の様子が、とても分かりやすく編集されていた。そして、感動的という点で映像に勝るのは、「雲中の間」という部屋である。薄暗く光を落とした部屋の壁に、鳳凰堂内にあった雲中供養菩薩52体のうち、26体が移設・展示されている。光の具合といい、一つ一つの菩薩像の意匠といい、本当に穏やかに静かで美しい。同時に、その空間に漂う「祈り」の気が、私を包み込むような気配を感じた。私が菩薩像を見つめているというのではなく、私の隣に当時の人が立って、共にそれらの菩薩像を見つめているような、そんな共感を感じたのである。
 思えば、今回、たくさんの仏像を見ながら、それらを見る時の思いが学生時代とは大きく変化していることに気づいた。それが私の年齢によるものなのか、社会的な事情によるものなのかは判然としない。
 学生時代(約30年前)には、仏像の芸術性を認めつつ、「昔の人は知識や技術がなかったから、こうして祈るしかなかったのだろう」と、同情というか、半ば冷たい視線でそれらを見ていたように記憶する。もちろん、そのように思った背後には、今は違う、という意識がある。自然現象の仕組みが分かっておらず、人々が祈るしかなかったことを、現代人は科学的に克服しつつあるのだ、というような思い上がりがあった。
 しかし、今年の年賀状ではないけれど、病気や自然災害とは違った、もっともっと根源的、本質的な「生き方の選択」ともいうべき部分で、現代人はまったく間違った方向に進んでいる、と私は感じている。そしてそれに対して打つ手がなかなかない。いくら手を打ってもテロが世界各地で絶えないことは、そのことをよく表しているだろう。人間が正しい方向に進むために、もちろん、同時代人として模索と働きかけの努力をしなければならないのは当然としても、実のところ、祈り、人類の行く末は天(神)に任せるしかない、ということをも私は感じている。自分は正しい、だが、世の中の不正をただすことが出来ない、というのではない。今、私が正しいと信じていることそのものが、本当に正しいかどうかも、歴史の判断に委ねざるを得ないのであり、この点についても、「正しいものであってくれ」と祈るしかない、ということだ。
 一見、進歩したように見える現代において、問題はむしろ人間そのものの内部に山のようにある。それらを克服することについて、私たちはあまりにも無力だ。平均寿命がいくら延びたとしても、命のはかなさは基本的に昔と今とで何ら変わっていない。「想定外」の災害が繰り返されることも、人間の自然結局の所、今なお「祈る」こと以外には手段を持たないかも知れない。その点において、現代人は平安の人々とほとんど何も変わっていないのだ。むしろ、平安時代の人の方が、人間の能力についての過信と思い上がりがない分だけ、たちが良かったのではないか、と思われてならない。「祈り」は、その価値をいささかも減じていない。これは私にとって、とても大きな気付きだった。雲中供養菩薩像の慰めは、そんなことを考えていた私にも優しかった。(続く)