即身仏

 羽黒山の後は、即身仏である。
 即身仏とは、生きながらにして仏になった僧侶のことである。厳しい修行の末、地下の穴に鉦を持って入り、地上との間は節を抜いた竹一本。外にいる人とは、鉦の音が聞こえなくなったらその竹に栓をする、という約束になっている。鉦の音が聞こえなくなった時というのが入定(=死)の時なのだ。それから3年3ヶ月後に掘り起こすとミイラ化した僧侶が出てくる。穴に入る前の修行が十分でないと、意識を失った瞬間に崩れ落ちたり、死後に腐敗したりするが、修行が完全だとそのようなことが起こらず、座った姿のままでミイラ化するのだ、と聞いたことがある。
 即身仏は、30年ほど前に一度拝んだことがある。記憶に残る逸話からすると注連寺、鉄門海上人の即身仏ではなかったかと思う。
 日本には18体の即身仏が現存するが、そのうち8体が山形県に、更にそのうち6体が庄内地方にある。今回訪ねてみようとしたのは、山形で最も古い即身仏が残る本明寺と、なんと96歳で入定したという真如海上人の即身仏が残る大日坊、そして時間があれば注連寺である。
 昔訪ねた時は、あちらこちらに即身仏の存在を示す看板が建っていたのに、今回は一度も見なかった。即身仏を観光(商売)の道具にするのをはばかるようになった、ということかと思う。
 本明寺はとても分かりにくいお寺である。入り口に看板も出ていないし、本堂も小さく、すぐ近くまで行かないと、存在そのものが見えない。寺に着くと、即身仏の存在よりも、「入定跡」の表示が最初に目に入った。「入定」とは、この場合、本明海上人が最後の時を迎えるために入った穴のあった場所のことである。苔むした石段を登って訪ねてみれば、古びてはいるが立派な石碑が建っている。お墓なような感じだ。
 本堂とは別に、即身仏を安置するための堂があって、お寺の方に頼むと、そこを開けて解説してくれる。本命海上人は1683年に入定し、3年3ヶ月ではなく、何かの事情で約5年後に穴から取り出されたらしい。
 聞けば、本明寺は檀家を持たないお寺だという。いかにも貧乏寺といった感じで、それがなんとも信仰の純粋さに似つかわしくはあるのだが、住職はいるわけで、その家族の生活がどのようにして成り立っているのかは分からない。
 次に訪ねた大日坊は、正式には湯殿山総本寺瀧水寺大日坊という。「瀧水寺」とは、昨日書いた通り、羽黒山五重塔が、もともと属していたお寺の名前と同じだ。羽黒山から大日坊までは20㎞ほどある。いくら総本寺でも、その建物が20㎞の範囲に点在していたというのは考えにくい。しかし、無関係とも思えない。
 大日坊はなかなか堂々とした建築物だ。807年に弘法大師が開いたという。今の住職は第95代だそうだ。徳川家との結びつきも深く、本堂に展示されている寺宝の数々は名品揃いである。びっくり!
 本堂の脇に、即身仏を安置するための別室がある。ここの即身仏は、真如海上人だ。苦行を70年も続けた後、1783年、96歳で入定したというから驚く。
 私が子どもを連れて即身仏を見に行ったのは、怖いもの見たさではない。即身仏を見ると、彼らの決意の重さに圧倒されるような気がするのだ。意識を失った時に身体が崩れ落ちないように、死後に腐敗しないように、想像を絶する苦行に耐える覚悟は、即身仏を通して今に生きる私たちを打つ。
 以前訪ねた注連寺の鉄門海上人など、江戸で眼病がはやった時、自分の目をくりぬいて隅田川に投げ、人々の眼病の平癒を祈ったとか、ある女性に強く求められた時に、自分の睾丸を切り取って女性に差し出して断ったとか、甚だ現実離れした逸話が残る。それらの逸話が本当であったとは、さすがに私も思わない。だが、そのような救済や仏道に対する思いの激しさ、厳しさについては本当だったのではないか、と思う。
 大日坊を出た時には15時半になっていた。注連寺には行かず、石巻に戻った。