マルク・シャガールの絵



 美術館に足を運ぶことは少ない。学生時代はよく絵を見に行ったし、旅行先では、それなりに訪ねるのであるが、最近は年に一度あるかないか、といったところである。思えば、このブログでも、「音楽」というカテゴリーはあるのに「美術」はなく、どこそこの美術館に誰々の絵を見に行ったという話は、「無言館」という特殊な美術館についての記事(2012年3月24日)だけ。美術館を抜きにしても、原田泰治の絵にほんの少し言及した記事(2010年11月29日)があるだけではないか、と思う。山本作兵衛の絵について(2012年3月9日)は、ちょっと性質が違う。

 立ちんぼで、人がごちゃごちゃいるところで絵を見るのは疲れる、といった理由もあるが、最も大切なのは、数十〜数百といった絵を集中的に見ることへの違和感である。

 我が家の居間には、故斎藤千代夫画伯の「飯豊春景」という絵が掛けてある。甚だお気に入りで、この絵にしてから数年経つが、飽きるということもない。絵は絵のためにあるのではなく、生活を彩るためにあるのだ、質の高い美術作品が、その場にふさわしい状態で置かれることで、その場をより居心地のいいものにする、これこそが美術品の価値なのだ、と思えば、美術館で一度に大量の作品を見るのは邪道である。いろいろな場所に作品が適切に配された状態で見るのがよい。音楽はこのように考えてしまうと、全てがBGMになってしまいかねないので、やはり音楽と美術は性質が違うのである。

 こんな美術観を持つ私に、今までで最大のインパクトを与えたのは、シャガールによるパリ・オペラ座の天井画である。かつて(1984年1月)、ガルニエ宮と呼ばれるこの絢爛豪華な建物を訪ね、劇場内に足を踏み入れた瞬間に目に入ったこの絵の衝撃は忘れられない。当時、シャガールという画家の名前は知っていたし、その作品も見たことはあったが、彼の名声を決定づけたこの天井画のことはよく知らなかった。しかし、見た瞬間にシャガールの絵であることは分かった。この絵自体にも圧倒されたが、シャガールの絵がガルニエ宮の天井に合うと気付いたアンドレ・マルローの発想、着眼にも感服した(政治的な配慮があったとも言われるけれど・・・)。ともかく、見れば見るほど、ガルニエ宮の天井にぴったりと合うものは、シャガールのこの絵しかないのだ、と思われた。

 さて、今日の午前中、宮城県美術館で開かれている「シャガール展」を見に行った。冒頭に書いたような理由で、あまり美術館の特別展に足を運ぶこともない私であるが、このガルニエ宮の天井画の記憶から、どうしてもシャガールはまとめて見てみたいという気になったのだ。しかも、展示作品の中には、その天井画のために描かれた多くの下絵、更には、ガルニエ宮以外の建築物にはめ込まれたシャガール作のステンドグラスや壁画の下絵がたくさん展示されているという。

 開館直後に入場したこともあって、人はさほど多くなかった。思い通りに見られないということもなく、2時間ほどかけてのんびりと見ることが出来た。う〜ん、シャガールは素晴らしい。美術品は生活の場をこそ彩るべきだとは言っても、そんなことを言っていると、接することのできる作品はごくごく限られてしまう訳だから、こうして集中的な展示が行われることも仕方がなく、むしろ感謝すべきなのかな、と思った。語弊はあるかも知れないが、必要悪に近い。

 多分、今までに多くの人が言っていることに付け加えることなどあろうはずもないのだが、私の感動の正体を、少しだけ言葉にしておこう。

 まずなんと言っても、色が非常に美しい。一つ一つの色も、全体的な色調も、輝かしいと言っていいほどだ。一見、無秩序に多くの色が使われているのだが、そこには調和があり、全体としてしっとりと華やかだ。シャガールがステンドグラス向きの画家であることに気付くのは、シャガールの絵がガルニエ宮に調和するということに気付くのに比べれば、はるかに容易である。

 シャガールの絵は、よく「幻想的」と表現される。確かに、描かれたモチーフは現実離れをしたものが多く、その形容は間違いではない。しかし、私はむしろ彼の絵の幻想性の背後に、無邪気な「子供の心」を感じる。よく言われるとおり、「子供の心」を終生持ち続けることは、芸術家としての大切な資質のひとつだとは私も思う。そして、最もそのことを感じさせてくれる人の一人がシャガールなのだ。

 今日見た絵の中で、私が最も気に入ったのは、ハダサー医療センター付属シナゴーグのステンドグラスの下絵の数々、そして、サーカスをモチーフとした挿絵版画集の下書きから、「道化師と緑の山羊」である。大きさも手頃だし、これらの絵を月替わりで我が寓居の壁にでも掛けることができたら、どんなに幸せであろうか、としみじみ思った。