日曜美術館「彫刻家・高村光太郎」



 日曜日の夜、Eテレ日曜美術館』という番組で「彫刻家・高村光太郎」を特集するというので、録画しておいて昨晩見た。先週だったかの再放送である。私は以前、光太郎についてかなり集中的に調べ、考えたことがあって、その結果は一書(『「高村光太郎」という生き方』三一書房、2007年)にすらなっている(現在は版元品切れ)。もちろん、その本は、光太郎が書き残したものに基づいて書いていて、主題も決して彫刻ではないのだが、私は「彫刻家」もしくは「造形美術家」としての光太郎を評価することについて、並々ならぬものがある。ちなみに、拙著のカバーは、番組の中でも大きく取り上げられていた光太郎の木彫作品『白文鳥』である。

 しかし、正直言って、この番組はひどい!と思った。いくら60分という制約の中での一般向け考察だ、とは言ってもひどすぎる。

 この番組の中で描かれる光太郎は、「智恵子との純愛に生きながら、彫刻の道に邁進した」という単純明快、直線的な光太郎である。一体誰が責任を持って作った番組かは知らないが、このような光太郎像が許されるのは、せいぜい吉本隆明高村光太郎論が出る以前(1960年頃まで)の話であろう。

 まず、光太郎がロダンを知ったのがパリ留学時代だという、事実に関する極めて初歩的で決定的な間違いがある。光太郎は、東京美術学校在学中にロダンの存在を知り、むしろそれに対する感動と憧れとが、留学しようという衝動の母体となっているのである。パリがロダンを知った場所ではないとすれば、留学先としてむしろ重要なのはニューヨークである。パリ時代は、光太郎の思想形成・人間形成においては重要な場所だったが、何をしていたのかよく分からない伝記の空白地帯である。彫刻との関係で言えば、短期間ながらもG・ボーグラムの助手として、一流の彫刻家の仕事を目の当たりにしていたニューヨークの方が、やはり学んだことは多かったと思われる。

 番組の中で、光太郎のマイナス面は触れられない。自分が反旗を翻した相手である父・光雲から、ほとんど全面的な金銭的援助を受けていたことも、精神を病んだ智恵子の面倒をどれだけ見ていたか怪しいことも、太平洋戦争中に政府=軍の宣伝塔となって、全面的に戦争に協力し、戦後、戦犯リストにさえ載ったことも・・・。その結果、戦時中に空襲でアトリエが焼けたことは、彼の彫刻作品がわずか50ほどしか残されていないことの理由(言い訳の材料)となり、戦後、花巻市郊外の山里に質素な生活をしたことは、疎開の延長でしか理解できなくなっている。

 また、美術家としての光太郎は、彫刻と共に、書においてとても立派な仕事をしたのだが、これには一切触れていない。もちろん、「彫刻家・高村光太郎」というのがタイトルだから、彫刻家としての仕事に絞って特集を組んだということなのだろう。しかし、「だから書には触れられなかった」というほど密度の高い番組には仕上がっていない。

 晩年の光太郎がおびただしい揮毫をしたことは、生活環境と体調との都合で、彫刻という肉体的にハードで、広い場所を必要とする造形ができなくなったことと密接に関係する。しかも、光太郎は自分のことを、根っからの「彫刻家」だと言う一方で、「造形美術家」という言葉もよく用いた。美を創造するということが究極の目的だとすれば、その手段が彫刻であるか書であるかというのは、二次的な問題だと言える。「詩人ではない光太郎」を論じるためには、彫刻と書のどちらを外すこともできない。言い方を変えれば、それほど彫刻も書も質が高いのである。

 詩人、評論家、彫刻家、書家・・・光太郎の多面性は、その人生において様々な陰影となって表れる。光太郎のような強烈な自我の持ち主が、一人の女性を愛した時、それはどのような愛になるのか・・・このことについては、近日中に少し書こうと思うが、まずは、番組の中で語られたような模範的な純愛ではない、ということだけ言っておこう。

 この番組の杜撰さに気付いたのは、対象が高村光太郎だったからである。これが別の人だったら、私は番組のウソに気が付けない。NHKあるいは『日曜美術館』という硬派の番組だからといって、話を鵜呑みにするのは禁物、とつくづく感じ入ったことであった。