南浜地区復興祈念公園迷走曲(6)



 三つ目の問題である。話は前後するが、会の冒頭で、私は1月6日に毎日新聞に載った記事を問題とした。それは、「門脇の大看板、移設へ〜「がんばろう!石巻」復興公園で保存」というものだ。石巻にボランティアや被災地ツアーで来たことのある人は、おそらくほとんど知っていると思うが、震災前に南浜地区(住所としては門脇町5丁目)にあったセブンイレブンの脇あたりに、高さ2m、幅11mのベニア製の大きな看板が建っている。その土地の所有者であるKさんが、震災から約1ヶ月後に建てたものだ。Kさんがどのような意図で建てたかとは関係なく、その場を訪れた人たちがそれぞれの思いで足を止めるようになった。不思議なもので、人というのは偶像めいた何かを求めるらしい。何もかもが津波で流された場所である。どこにいて死者を悼もうが、往時を懐かしもうが構わないはずなのに、なぜか人はこの看板に集まるのである。記事は、国と県が、その看板を復興祈念公園に移設することを決定した、と伝える。ただし、その決定は、新年早々ではなく、昨年夏のことだという。なぜ今時、記事になったのかは分からない。

 私は、国がその看板を公園内に移設しようとしているらしい、という噂は耳にしたことがあったが、決定事項だとは思っていなかった。しかし、それが決定事項だとすれば、やはり公園に関する様々なことは既にみんな決まっていて、協議会は市民の意見も聞きながら決めたというカムフラージュを演出するためか、まだ決まっていないごく些細な点についてのみ何かを言わせるということなのだろうと、新年早々、ひどく腹立たしいようなバカバカしいような気持ちになったのである。

 この記事に書かれていることは本当なのか?本当だとすれば、既に決まっていることが何か全て教えて欲しい、と言ったところ、記事の通り、昨年の夏に看板の移設は決定し、「基本計画」(会の冒頭で口を挟んではならないと釘を刺されたアレ)にも書いてあるのだ、既決事項は「基本計画」に書いてあることで全てだ、と言う。私がもらった「基本計画(概要版)」には書かれていない。

 なにしろ「口を挟んではならない」お上の決定なので、会でそれ以上の話にはならなかったのであるが、この看板とその移設については、市民の間で非常に異論が多いということは耳にしていた。なぜ多くの異論が出ているかというと、次のような問題があるからである。

・個人が思いつきで建てた看板である。

・「がんばろう」という文言に違和感や憤りを感じる被災者が多い(みんなが頑張れるわけではない)。

 記事には書かれていないが、この看板は公園の中でも国が管理するエリアに移設されるらしい。ところが、国が管理するエリアというのは、「追悼」と伝承の場ということになっている。看板に書かれた文言は「がんばろう」だ。だからなおさら面倒になる。そこに、創価学会と関係があるとか、注目されていい気になっているのでは?といった感情的な問題もあって、中には「どんな手を使ってでも国のエリアにだけは持ち込ませない」と息巻いている人さえいるらしい。国のエリア(=追悼)だから悪いのであって、市や県のエリアなら、これほど問題にはならない、移設するとしても市のエリアだろう、という折衷的な意見の人も一定数いるようだ。

 私は、あまり詳しい事情は分からないが、Kさんに少し同情的だ。というのも、Kさんがどのような意図でその看板を建てたかとは関係なく、人々がその看板に勝手な意味づけをしてしまっていると見えるからだ。つまり、ある人は被災地であることを示す印としてしか見ていない、ある人は追悼の場として花を捧げる、ある人は文字通りに励ましを得る、といった具合である。看板はKさんの手を離れてひとり歩きしている。だが、Kさんが撤去するとすればそれで済むのも確かだし、逆に、いろいろな意見があるのを知りながら、5年に1度、近所にある門脇中学校生と看板の立て替えをすることを新たに発案したりしている(←これけっこう無責任な発案)のだから、Kさんにも責任はある。

 国や県は、人々がたくさん集まるシンボルだから、この際残そう、と軽く考えただけだろう。深く考えた跡などないのだ。看板の元々の性質と、現在の看板が持つ意味・作用との両方を考えながら、冷静・慎重に議論をすることが必要なのに、である。

 私には、強い異論をねじ伏せながら、わざわざどうしても残さなければならないものだとは思えない。世の中には、もめた時に、異論を持つ人にしっかりと説明し、我慢してもらいながら実施しなければならないこともあるが、異論を持つ人がたとえ少数でも、我慢の無理強いなどする必要のない問題も存在する。看板問題は明らかに後者である。全ては「基本計画」に則って進めると言う行政が、看板についても既決事項として移設を強行するのか?場合によっては、行政が理念というものをどれだけ真面目に考えているか、市民の心にどれだけ寄り添っているかの試金石になってきそうだ。(そのうち続く)