ちやほやされて育つ

 つい先日、他校のK先生と話をする機会があった。就職担当者同志である。話が、今年の3年生の質、ということに及んだ。私の勤務校でもそうなのだが、どうも今年の3年生はよくない、という話を耳にする。K先生も同感だ、と言う。
 私は思わず、「これって、震災の影響とかやっぱりあるんですかねぇ・・・?」と言った。何しろ、被災地に冷たい私である。以前から、人の心も含めて、何かに異常が感じられた場合、どうせ因果関係なんてはっきりしないんだから、だとしたら、何でもかんでも震災のせいにしない方がいい、私は震災の影響による生徒の問題なんて信じないぞ、と言って、小学校の先生から厳しく批判されたこともある(→こちら)。だから、私がそんなことを言ってしまったのは、さほどまじめに考えているわけではなく、いわば「ご挨拶」である。それでも、そんなことを言う時、私の頭の中にあったのは、自宅を完全に失ったとか、親戚・友人を始めとする身近な人がたくさん死んだとか、そんな理由で心がすさんだり、安定を失ったとかいう、一般によく考えられているような因果関係である。
 さて、K先生は、「あるんじゃないですか。」と言う。ああ、やっぱりそうなのかな?と思う。そして、自分の今までの言動を思い出しては、少し敗北感にも似た気持ちが兆してくるのを感じていた。ところが、それに続くK先生の言葉を聞いて、私は正に驚愕してしまったのである。

 「彼らが被災したのは、中学校入学の直前ですよね。震災直後の3年間と、中学校生活が重なり合います。人間の精神の発達にとても重要な時期です。そんな時期に彼らは、支援、支援と言ってあふれるほど物をもらい、心のケアだとか言って、腫れ物に触るような扱いを受けました。しかも、外の人からは被災地の子供としてちやほやされる。これで人間がまともに育つわけがないじゃないですか。前後数年間の生徒だって、似たような状況はあったわけだけど、やっぱりどの年代でそういう扱いを受けたかによって、影響は全然違ってくるんじゃないですか?中学校3年間を丸々、というのは大きいですよ。」

 へっ、恐れ入った。これは私を上回る被災地への冷たさだぞ。だが、私がうっかりしていただけで、K先生の分析は正しいかも知れないな、と思った。津波で家が流されようが身内が死のうが、それはあくまでも「自然」である。一方、その後の様々な出来事(私が「ただの社会現象」と言ってバカにしているやつ)は全て「人為」である。「自然」は絶対だ。人間の成長にとっても、悪いのが「人為」だというのは、K先生の話の後で冷静になってみると、ごく当たり前のことに思われてきた。
 毎日、熊本での地震に関する報道に接しながら、被災者の方々には同情する一方で、これから始まる、いや、既に始まりつつあるであろう過剰な土木工事と過剰なケアに思いを馳せては、私は眉間に皺を寄せている。