「被災地の高校生」



 先週土曜日の午後、関西からある著名な教育学者が石巻に来た。事前に知人から、老先生が高校生の話を聞きたいとおっしゃるので、適当な高校生を3〜4人紹介してくれないか、と話があった。そこで、宮水の選りすぐりの生徒4名に、我が家に来てもらった。私は口を挟むこともなく、老先生と宮水生の1時間半にわたる会話を横で聞いていた。

 少しちぐはぐな感じがして面白い問答が続いた。被災して生活がどう変わったか、と問われれば、4人のうち2名は、自宅が完全に流失したのであるが、その子供達も含めて、だれもが「何も変わらない」とまず答えた。続いて、いろいろな支援プログラムのおかげで、日本各地から、更にはアメリカ、トルコにまで行く機会が持てて良かった、と顔を輝かせる。最後に、各自が将来へ向けての夢を語った。高校卒業後の進路として「県外に出たい」が1名、「海外に行きたい」が1名、「決まっていない」が1名、「自宅で家業を継ぐ」が1名、就きたい職業も決まっていたりいなかったり、当たり前と言えば当たり前なのだが、各自てんでバラバラである。

 最後に、私が感想を求められた。「ずいぶん正直な対談だった」と述べた。そう、石巻の高校生は、震災以来、「被災地の高校生」であることが常に求められてきた。自分の震災体験を語っても、「何も被害はなかった」では済ませにくいので、家を失ったり家族を失った友人のことを語る。将来へ向けての希望は、「被災地の復興に自分も力を尽くす」、というのが「答え」だ。外から来る人は、必ず悲劇の中で頑張っている高校生を期待し、生徒は、意識してかしないでか、期待を読み取り、まるで誘導尋問に引っかかるように、「被災地の高校生」を演ずる。そんな生徒の姿を、私は幾度となく見てきた。なんとも後味の悪い違和感が残る。

 思えば、どこの高校生にだって、地元に残りたいと言う生徒はいるだろうし、そういう生徒には、活力ある地元を作るために微力を尽くしたいという気持ちがあるだろう。しかし、それが被災地で語られる時、「被災地の復興」という言葉と結び付いて、実際以上に英雄的な存在に仕立てられてしまう。この日集まってくれた4名には、そんな気配が微塵もなかった。当たり前の「1人の高校生」として、素直に正直に、当たり前の自分の思いを述べた。「被災地の高校生」と一括りに出来るものは何もなく、にもかかわらず、老先生も彼らに何かを強いるようなところが一切なかった。その結果として、私はこの対談を爽やかな好感を持って聞くことができたのであり、それが「ずいぶん正直な対談だった」という感想になった。私としては、最大限の褒め言葉のつもりである。

 「被災地の復興」などむやみに騒がなくても、石巻を離れることがあっても、1人の健全な社会人となり、世の中を支えれば、自ずから被災地のためにもなる。「被災地の復興」などという看板を背負い込んで、もっともっとスケールの大きなことが出来る人材が石巻に埋もれたのでは、逆に悲劇だ。彼らには、自分の個性と能力を最もよく発揮できる場所にいて、そこでいい仕事をしてくれれば、それが誰にとっても一番いいのである。