後生畏るべし(祝卒業)

(3月1日付「学年主任だより№37」より)


卒業おめでとう。
 今日でおしまい。寂しいけれど仕方がない。3年間、できる限りのことはしてきたし、先日「最後のお話」はしたし、今日配布のPTA会報にも雑文(下部参照)を書いたので、今更何かを書くのは野暮というものである。あえて言えば、人生の様々な場面で、「平居ならどう考えるかな?」と立ち止まってみてもらえると幸い。

(ブログ用:以下3年間どのような人々にお世話になったかを振り返る記事が続く。ブログでは省略。)

裏面:「ヴォスの『駅長さん』」後編
平居コメント:「ニルセンさんのような政治家を持つ国の人々こそ、まことに幸いなるかな」と作者は書いているが、偉いのはニルセンさんではなく、そんな人を選んだノルウェー国民である。民主主義的制度(普通選挙や議会)が整備された国家において、政治家は確実に国民の質を反映する。そこを間違えてはいけない。なお、一昨年刊の亀淵迪エッセイ集『物理村の風景』(新日本評論社)に載る後日談によれば、ニルセンさんは、2020年4月16日に96歳で亡くなった。2人の付き合いは58年に及んだ。作者は現在94歳でご存命。


(3月1日発行PTA会報「青春満開」№22より3学年主任の挨拶)
*字数制限の都合で削った部分を若干復活させた。

 卒業おめでとう。
 塩釜高校という大規模校で、全ての諸君と授業で接することは出来ないので、私が諸君に「1人の大人」として伝えておきたいと思ったことは、「学年(主任)だより」に書いてきました。何かを学びたいと思う気持ちがあるならば、それを見てもらうのが一番です。「自分を伸ばせるのは自分だけ。」私はそのためのきっかけと材料だけは与えた、そこから学ぶかどうかは諸君の問題、ということです。
 中国では古来、「若い」ということを「春秋富む」と表現しました。「時間がたくさんある」という意味です。年配の家臣が若い皇帝について語るに当たり、失礼にならないように工夫した言い方なのですが、なかなか含蓄のある表現です。「若い」ということは、時間をたくさん持っているということであり、私のような老域にさしかかった人間の目から見ると、ただそれだけで「価値」と言えるようなものなのです。
 「後生畏るべし。いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや。」(『論語』)
 「後生」は、「後から生まれた者」、すなわち「自分よりも若い人」の意味です。「来者」も同様です。「若者は偉大だ。若者が既に大人になった人間をやがて上回らないとどうして言えようか、いや、言えない。」諸君は未熟です。しかし、諸君が今の私の年齢に達した時、私をしのぐ存在になっている可能性は十分にある、その可能性こそ偉大だ。孔子はそんなことを言っています。なにしろ、諸君は「春秋富む」なのですから。
 一方で「少年老い易く学成り難し」も真実。油断することなく学び続けなければ、すぐに「畏れる」に足りなくなる時がやって来ます。孔子は上の文に続けて、「四十五十にして聞こゆること無くんば、これまた畏るるに足らざるのみ(四十歳か五十歳になっても評判にならないようであれば、その時は可能性を語るに値しない)」と言っています。
よい人生を!!