「探検ファクトリー」の喜び

 毎週土曜日の12:15から25分間、NHKで「探検ファクトリー」という番組をやっている。読んで字の如し、工場見学をする番組である。なにしろ私は舞台裏大好き人間である。工場というのは製品の舞台裏なのだから、昔から工場見学には目がない。マニアと言ってよいほどだ。水産高校で進路部長をしていたときには、地位を利用してずいぶん工場めぐりをした。関東地方の有名な大工場に、私費で出張に行ったことさえある。というわけで、「探検ファクトリー」は、毎週欠かさず見ている。
 その探検先が、昨日と先週と2週続けて石巻の工場だった。先週は我が家から数百mの所に見えている聖人堀(しょうにんぼり)鉄工所、昨日は木の屋石巻水産(以下、木の屋)である。番組ではなぜか会社名を明かさないのであるが、一週間前の番組の最後に映し出される予告編を一寸見ただけで分かった。「どうしてこんな会社が?」とは全然思わない。石巻地区の会社をどこか取り上げるとしたら、誰が選んでも5つの候補の中には間違いなく入ってくる会社である。
 聖人堀鉄工所とは、巻き網船に搭載するアルミ製の小型船を作っている会社で、なんと国内シェアは80%に達する、その世界では独走状態にあるトップメーカーである。元々、それらの船は鉄で作られていたため「鉄工所」という名前になっているが、現在は名実が一致していない。
 木の屋は、缶詰製造を専らとしている水産加工会社である。サバやサンマ、クジラの缶詰が特に有名だが、マグロ、牡蠣、ホヤなど、多彩な水産物を缶詰化していて、その種類は30を超える。
 どちらの会社も東日本大震災では壊滅的な被害を受けた。木の屋のクジラの缶詰と同じデザインの巨大タンクが、流されて県道240号線の上にどーんとひっくり返っていた光景は、おそらく見たことのない人がいないほど有名だ。その後、聖人堀鉄工所は、復興事業との関係もあって、元の場所より200mほど海側に移転し、木の屋は、リスク分散という意味から、魚市場のすぐそばの工場を復旧させるとともに、新工場を内陸・美里(みさと)町に作った。昨日の番組は、主にその美里町の工場でロケが行われていた。
 地元も地元、我が家から目と鼻の先にある会社を取り上げるとあって、私は録画しながら食い入るように見ていたのだが、更に嬉しいことに、どちらの番組でも、私の教え子が登場した。聖人堀鉄工所では、水産高校時代の教え子HとMが優れた職人として、そして木の屋では石巻高校時代の教え子Kが、なんと社長としてである。
 聖人堀鉄工所は、従業員わずか20名ほどの小さな工場だが、テレビに登場した従業員はそのうち3人だから、その中に教え子が2名入っていたというのは驚きだ。HもMも、高校からは別の会社に就職したはずだが、その後、聖人堀鉄工所に移った。私が水産高校に勤務していた最後の年だったか、進路担当として会社を訪ねたときHに会って、「え!お前なんでここにいるの?」と驚いたのを憶えている。なにしろHは、水産高校では食品科学類型にいたのだ(彼がNHK「おいしい闘技場」に出演した時の話が、『それゆけ、水産高校!』109頁~にある)。それから既に6~7年。一人前になり、おそらくは会社を代表する社員としてテレビに登場した、というのは感動的だ。
 Kが社長になったのは知っていた。もう10年近く前。彼がまだ30歳そこそこだった頃である。高校時代は線の細い子で、まさかそんな若さで家業を継ぎ、やり手の社長として頭角を現すことになるとは想像もできなかった。やはり私が水産高校で進路担当だった時、学校に来て、「平居先生、1人でもいいですからなんとか生徒を来させてもらえませんか?」と頭を下げた。従業員の確保が難しく、よほど思い詰めていたのだろう。私も力になりたいという気持ちはとても強く持っていたのだが、今の学校は生徒に「ここに行け」と命令ができない(言っても聞いてもらえない)。大半の生徒は既に就職が内定し、残ったわずかばかりの生徒も、あいにくまったく違う方面への就職を希望していた。
 Kにそんな説明をしてわびると、Kは落胆しきった表情で帰って行った。その時、Kの力になれなかったことは、ある種の後ろめたさとしてずっと私の心の中に残り、木の屋の状況は常に気になっていた。そして、最近の木の屋の隆盛、テレビで見たKの明るく生き生きとした表情を見ると、救われたような気持ちになる、と同時に、偉いやつだ、という尊敬にも似た気持ちがわき起こってくる。
 2週続けて、工場=技術力のすごさというテーマとは少しずれた所で、いい思いをさせてもらった。今後ますます立派な仕事ができるといい。