私は昨年から町内会の防災部長という役をしている。「防災」というのは苦手分野で、「各自で考えて身を守れよ」という式の人間なのだが、おそらくは町内会長が、平居にも何か職を与えて町内会に引っ張り込もう、一番負担が軽そうなところで防災部長ならいいのではないか、と配慮の上で声をかけてくれたのだと思う。なにしろ、東日本大震災でも被害ほぼゼロの日和山である(津波だけでなく、揺れによるものも含めてですよ!!)。防災部長の出番があるとすれば、おそらくは市の防災訓練の時だけだ(笑)。
防災部長でも、役員会には全て出席の義務がある。もちろん、どうしてもやむを得ない事情がある時には欠席するのだが、私はその率が高いので、時に役員会に行くと少し肩身が狭い。
今日は臨時の合同役員会があった。盆踊りの準備である。なんでも、今年から地域の8つの町内会が「町づくり協議会」という連合体を作ったので、一度いっしょに盆踊りをしようという話になった。そこで他の町内会からも人が来て話し合いをする。だから「合同」というわけだ。昨年までとは違うやり方、慣れない方法でイベントを運営するのはなかなか大変である。
私がびっくり仰天したのは、駐車場の確保の話に20分もの時間が費やされたことである。だいたい小学校の学区に相当する地域の行事である。私なんかは、車で行くという選択肢が初めから存在しない。しかし、話を聞いていると、他の面々にとって車で行くのが「当たり前」らしいのだ。足腰の怪しい老人がいて、その老人がどうしても行きたいと言う場合、家族が、じゃぁ、車で連れて行くか、という発想になることまでは理解できる。普通に歩ける人が、数百メートルか、せいぜい1㎞ちょっとの距離を、車でなければ行けない、あるいは車で来るなと言われれば行く気にならないというのは、私の感覚ではもはや人間の退化の行き止まり点である。
おそらく、そういう人は、この石巻でもずっとエアコンの動いている部屋でじっとしているのだろうし、冬は冬で、石油の消費をなんとも思わず、暖かい部屋の中にいなければ死んでしまう、と言いながら生活しているのだろう。
机の上には、言うまでもなくペットボトル入りのお茶が置いてある。学校でも同様だが、人が集まる時に、ペットボトルの1本も出さなければ申し訳ない、それをしなければ失礼、もしくは非常識であるかのような雰囲気が着々と出来上がっているのを感じる。おそらく、日常生活においてその他の使い捨て容器についても、「便利でいいわね」以上の感覚はないのだろう。
「法令で禁止されていないこと」、「お金をちゃんと払っていること」、この二つ以外のモラルは世の中には存在しない。それは「どうあるべきか(そもそも何が正しいか)」という思考が欠如していることによって可能になる。
「人間は見たいと思う現実しか見ない」という人間観は深刻だが、何を見るかについて「見たい」とか「見たくない」といった意識的なことは行われていない。自分の意に沿わないこと、自分にとって感情的に不都合なことは、まったく無意識のうちに視野にも意識にも入ってこないようになっているのだ。最近私がよく感じるのは、問題点を平易な言葉で説明しても、その説明がまったく意識に入らないらしいことだ。もちろん、そういう人には「人間は見たいと思う現実しか見ない」という警句すら視野にも意識にも入ってこないわけだから、そんな人間の本性を乗り越えていこうという意識も生まれず、ただひたすら、法令で禁止されていなくてお金を払ったという範囲で、やりたい通りのことをしながら楽しい生活をするのだろう。
少し羨ましいが、やっぱり私にはできないな。なんだか、どこにいても苦しい。