マタチッチのブルックナー



 少しマニアックな話になる。

 3月に入ってから、車の中ではひたすら小松亮太によるアルゼンチンタンゴを聴いていた。ところが、前の日曜日、「N響アワー」なるテレビ番組で、NHK交響楽団の昔の映像を流すというので、見てみたところ、ロブロ・フォン・マタチッチがブルックナー交響曲第8番を振っている映像が、わずか数分ながら放映された。1984年3月の録画である。衝撃的だった。「大きい」という以外に形容の言葉が見つからない。それでいて85歳、死の10ヶ月前のマタチッチは、口をパクパクしながら手をぶるぶる震わせているだけの老人である。なぜこれで大編成のオーケストラが一糸乱れず動くのか、見当がつかない。番組にゲストとして出演していた元コンサートマスター・徳永二男氏が、「最も印象に残った指揮者」だと言い、「アンサンブルは私たちが何とかしますから、マタチッチさんの作りたい音楽を作って下さいと思った」と語るのを、なんだか不思議な気持ちで聞いていた。あれだけの大編成オーケストラの音を揃えることを抜きにして表現される「音楽」とは、一体何なのだろう?マタチッチの何がオーケストラを動かしているのだろう?何が違うから、私がその演奏を「大きい」と感じるのだろう?そういった疑問が後から後から湧いてきたが、それによって私が心動かされたという事実は何も変わらない。

 実は、この演奏は、かつてFMだったか借り物のCDだったかで聴いて感銘を受けたことがあって、1枚1500円以上するCDを買うことなど滅多にない私が、2500円もするライブ盤を持っている。そして昨日、時間をやりくりしながら、我が家にあった第5番、第9番というチェコフィルを振ったものも含めて、マタチッチのブルックナー3枚を聴いた。いずれも圧倒的に雄大な名演だと思った。

 もともとブルックナーの音楽自体が、途方もなくスケールの大きなものである。一方、マタチッチの演奏は少し聴いたところ、とても乱暴である。第5番の第1楽章の終結部など、何の抑制もなく、感情にまかせてオーケストラを暴走させているとしか思えない。しかし、音楽というのは、大きな音を出せば強い感情を表現できるというものでもなく、乱暴に鳴らせば激しい感情を表現できるというものでもない。乱暴にがなり立てれば、下品であったり、空回りしているという印象を与える可能性の方が高い。もちろん、そんなことは微塵もないのがマタチッチのブルックナーの名演たる所以であろう。おそらく、非常に正直謙虚な人格者なのだ。

 ただ、もちろん、結局のところ、そのような人格が演奏に表れているとしても、あのパクパク、ブルブルで、なぜオーケストラがそのような人格を音楽に反映させることに成功するのか、音をどのように操作したことで、あのような雄大な印象を与える音楽になったのか、といった上にも書いた疑問に対する答えは見つからない。まぁ、そこが音楽の奥深さなのだから、詮索は野暮、素直に音楽に身を委ねていればよいということなのだろう。