「燃えた門脇小学校校舎をどうするか」の説明会



 昨晩は、「門脇小学校施設(校舎等)の取り扱いに係る説明会」というのが行われた。門小の統廃合ではなく、震災で津波に襲われた上、炎上して廃墟となった校舎をどうするか、という問題がテーマである。

 冒頭の市教委教育次長なる人の話(挨拶)を聞いていると、9月に門脇小学校の保護者から採ったアンケート等に基づき、市教委が出した結論について「説明」する会だとすぐに分かったのであるが、出席した保護者の多くはそう理解せず、校舎をどうするかについて議論するための場だと思ったらしい。これが、後に面倒を引き起こすことになる(タイミングの問題だけだが・・・)。


 アンケート結果は次の通りであった(保護者140名中、回答119名=回答率85%)。

*保存すべき 53名(45%)

(理由=複数回答のため回答数は64)

遺構として35(55%) 思い出として15(23%) 

その他14(22%)→一部保存等5、観光・公園整備9

*解体すべき 43名(36%)

(理由=同上71)

辛い・悲しい・不安23(32%) 治安・危険・景観12(17%)

その他36(51%)→一部保存等20、復興優先・他に有効活用16

*その他 23名(19%)

保存寄りの意見4(17%) 解体寄りの意見1(4%)

どちらとも言えない・どちらでもいい12(53%) 一部保存等6(26%)


 市教委の結論は「解体」であった。理由等は以下の通りである。

1)門小を見ることが辛いという心情に配慮

2)復興に向けた土地活用、安全確保、防犯上の問題

3)付近の将来の居住者や景観への配慮

4)被災・改修工事で校庭・体育館が使えなくなる市立2高(市女、市女商)の体育関係代替施設の確保

なお、一部保存については、費用が高額となることから断念した。映像や物品保存により、門小を後世に伝える努力はしたい。解体工事は1月から行い、4月から市立2高の体育施設として活用したい。


 私は、一応「保存すべき」に丸を付けた上で、「観光施設として3〜5年残した上、ほとぼりが冷めたら解体すべき」と付記し、更に、「もしかするとこのような意見は「解体すべき」に丸を付けるべきかも知れません」と書き添えた(どちらに分類されたか分からない)。上のアンケートを見ると、「保存すべき」「解体すべき」「その他」の選択肢があったとは言っても、理由として「一部保存」がそれら全てに含まれることに表れているとおり、保存が解体を9ポイント上回った等と軽々に言えないものであることが分かる。「どちらでもよい」も少なからぬ勢力である。

 さて、市教委の説明が終わった後、質問はあまり出なかった。いや、そもそも出席者そのものが、27〜8名で、門小の将来構想についての説明会に比べると、ずいぶん低調だったのである。私は、たかが焼け焦げた校舎をどうするかだけの問題なら、多くの人にとっては「どっちでもいい」問題なんだろな、と思った。始まって30分後くらいには質問もほぼ尽きて、間もなく閉会と思った。

 その時である。誰かが「これについての市による最終結論はいつ出るんですか?」と尋ね、市教委が「11月上旬です」と答えた瞬間、「え〜〜っ?」という声が上がり、「大衆」が一気に炎上した。ここから1時間以上、なんとか校舎を「保存」に持ち込もうという、人々の「口撃」が続いた。

 曰く「これでは解体ありきではないか?」「今日は一方的な説明会なのか?」「手続きを踏んだという既成事実が作りたいだけだろ?」「これは門小だけではなく、石巻市民にとっての問題だ。もっと広くアンケートを採り、意見を聞くべきだ」「保存が多いというアンケート結果を尊重しないのか?」「市が可住ゾーンに決めたから解体になっただけの話で、ここを可住ゾーンにするという決定そのものがおかしいのではないか?」「原爆ドームのように活用して欲しい」「子供への教育効果というものを考えないお役所仕事だ!」「決定を急ぎすぎだ。もっと時間をかけて考えるべきだ」「全国の門小を卒業した友人にメールで意見を聞いたところ、保存して欲しいという意見が多かった」「シンボル公園の中に移築すればいいのでは?」・・・・・・。その場に集まった保護者のすべてが同様の意見を持っていると信じている風でもあった。

 意見を述べたのは数名の「保存」派。すべて女性で、どうも今までの将来構想説明会で、石小に統合することで門小をなくしては子供たちがかわいそうだ、とか、門小の名前で卒業させたい、とかいった私には理解不能の感傷論を述べていたメンバーと見えた。泣き始める人も現れた。

 一度火がつくと、もう、反対の意見は述べられない。あまりにもメチャクチャだから、発言しないとまずいと何度も思ったが、最終的に、「言っても無駄」という気持ちがどうしても勝って、黙って聞いていてしまった。

 私とて、震災後の様々な事後処理問題に関する市の決定が全ていいなどとはまったく思っていない。しかし、この手の会に出れば出るほど、どれほど市民の感情や考えがばらばらで、全ての人が納得する結論があり得ないかということが分かる。慎重に検討を進めれば「遅い!」と罵声が飛び、パブリックコメントでは周知の仕方が甘いからアンケートを採れと言われ、採ったら採ったで、学区だけではない、市全体の問題だと言われ、誰がどこに住んでいるのか、南浜町や門脇町の人々がどれだけ多くの場所に分散しているかも考えず、意見を聞くことを求める。会の出席率が悪ければ、事情があって出られない人もいるのだから、と言って、この会だけで意見を聞いたとするのは市の配慮が足りないと責める。こういう人たちを相手に物事など決まるものではない。費用の問題も考えない人が多い(市にお金がないんだったら、国に頼んでみては?などと言う人もいたが、国にどれだけ巨額の借金があるか分かっているのかな?)。私には、彼女たちの意見のほとんどが、自分の意見を通すため、若しくは自分と違う意見を通さないための屁理屈に聞こえる。この手の会は常に後味が悪い。人間に対する悲観的な気持ちだけが残り、暗い気持ちで家に帰る。


 人間もそうだが、役割を終えた物・者は、潔くきれいさっぱりなくなるのがよいのだ。最近の人々は、文化遺産だとか教訓だとか生きた証だとか言って、何でもかんでも残そうとする傾向が強い。こんな勢いで物を残していけば、やがて大変なことになってしまう。門小の校舎は、津波による火災で燃え尽きたとは言っても、津波との関係で言えば間接証拠に過ぎない。ただの火事による被害と同じである。保存すれば膨大な費用が永久にかかり続ける。大災害を後世に伝えると言ったって、人間は学ぶ気さえあれば文字で過去を学ぶことができる存在なのであって、こんな巨大な廃墟を残さなければ過去から教訓を学べないとすれば、学力不足を反省して、文字の読み書きをせっせとトレーニングした方がよい。それは、門小という廃墟と違って、はるかに応用の範囲が広く役に立つ。