チェリビダッケ雑感(2)



 CDでブルックナーの第8番を聴いてみて、そのあまりにもすばらしい演奏に驚嘆した。確かに、以前の印象通り、テンポは非常に遅い。マタチッチの演奏が74分であるのに対して、104分(どちらもノヴァーク版。もちろん拍手は除く)。実に、ベートーベンの小さな交響曲(第1や第8)1曲分を上回る30分もの違いがある。それでも、音楽が充実しているためか、ブルックナーというもともと悠然とした音楽だからか、遅いということを感じることがない。チェリビダッケの演奏が、たいていの場合、常軌を逸して遅いというのは有名な話だ。しかし、遅いことによって退屈を感じるとすれば、それは10分で表現できるはずのことを15分かけて演奏するからではないのか?どうしても15分かけなければ表現できないものがあって15分かけるなら、退屈を感じるはずはないのではないか?チェリビダッケブルックナーの遅さが気にならないばかりか、むしろ長く音楽が続いてくれることを喜んでいる自分に気づいては、そんなことを思った。

 また、不思議なことに、オーケストラの音量(最強音の大きさ)というのは、指揮者によって変わる。しかも、大きな身振りで指揮をすれば大きな音が出せるわけではなく、大きな音が出れば迫力があるというわけでもない。音楽の作り方や指揮者との関係で、楽員が自ら大きな音を出したい、と思った時だけ、オーケストラはよく鳴り響くのだろうと思う。この点、チェリビダッケの演奏は、フォルティッシモはもちろん、それ以外の部分も、オーケストラが本当に気持ちよく、充実感を持って鳴り響いている。これはブルックナーにとって特に大切なことだ。録音もすばらしい。

 以前(2008年5月26日)書いたとおり、ブルックナーは「大人の古典」だと思う。オーケストラは編成が大きい(ブルックナーは「トランペットの作曲家」とも言われるとおり、金管楽器を多く使う。そして、金管に負けないだけの弦が必要となる)けれど、楽器の種類はマーラー等に比べると決して多くない。それでいて、これだけ独特な世界を作り出せるというのは不思議である。よく「宇宙の音楽」とも言われるが、確かに、この音楽を聴いていると、自分が非常に大きな世界の一部として存在していることを感じてしまう。

 チェリビダッケのCDでは、フォルティッシモで全曲が終わった後、20秒間もの静寂が続き、次の瞬間、爆発的な拍手と歓声とがわき起こっている。マーラーの第9番やチャイコフスキーの第6番のような、弱音で消え入るように終わる曲ならともかく、ブルックナーの第8番のように、フォルティッシモで、幕でも引き落とすように終わる曲で、直後に拍手が始まらないというのは珍しい。もう少し厳密に見ると、第4楽章が入っているトラックの最後に5秒の静寂があり、そして次の拍手のトラックに15秒のマイナスカウントがあり、足して20秒となる。最初の5秒は、ホールを満たしていた静寂に違いないが、後の15秒が、CD制作の過程で作られたものなのか、実際の演奏会であったものなのかは分からない。しかし、曲と拍手の間にわざわざ15秒のマイナスカウントを置くのは不自然だ。チェリビダッケが演奏終了後、聴衆の拍手を拒絶するように長く指揮棒を空中で止めていたことが多かったというのは有名な話である。教会が演奏会場となっている時には、演奏を始める前に、終演後拍手をしないよう聴衆に求めていたという話もある(クラウス・ヴァイラー『評伝 チェリビダッケ』春秋社、1995年。なお、この本に出てくる拍手をしないよう求めている場面で演奏された曲は、ブルックナーの第8番である。偶然かどうか?ただし、CDはガスタイクセンターでの録音であって、教会ではない)。おそらくは、実際にあった静寂の20秒なのだろう。この効果もまた恐るべきものである。

 前に書いたとおり、私が今までチェリビダッケの録音を持たず、聴く機会もなかったのは、そのあまりにも遅い演奏と、録音の少なさ、それにともなう値段の高さによっていた。

 高齢になるに従って演奏のテンポを落とす演奏家が多いことは知られている。ということは、聴く側でも、高齢者ほどテンポの遅い演奏をよしとする傾向があるだろう。今回ブルックナーの第8番が心地よく聞こえたことが、仮に私の加齢によるものだとすれば、他の曲についても当てはまるものなのか・・・?また、探してみると、現在はミュンヘンフィルとの晩年のライブ録音が大量に安く売られているようである。ブルックナー以外の作曲家の曲についても、あれこれ聴いてみようと思っているところである。(完)


【余談】

 私は、1度だけ、チェリビダッケミュンヘンフィルの演奏会に行ったことがある。1984年3月4日、私はたまたま、ミュンヘンでその演奏会の存在を知った。チケットがあるかどうか分からなかったが、会場であるドイツ博物館大ホールに行ってみると、最前列、中央からほんの少し右寄り(チェロ側)、指揮台のすぐ後の所の切符が買えた。

 この演奏会は、ヨーロッパで恒例の「春のカーニバル」のための音楽会で、曲目はヨハン・シュトラウスオッフェンバック、スッペのワルツ、ポルカ、序曲であった!!!チェリビダッケがこのような、いわば「娯楽音楽」とでも言うべき音楽の演奏を引き受けるというのは驚きだった。

 演奏の質が云々など全然覚えていない。演奏会の性質が性質なので、偏屈な頑固じじいのチェリビダッケも、それなりに聴衆を喜ばせようと努力してか、お尻を振ったり、肩を揺らしたり、おどけた動作でサービスを試みるのだが、すぐ斜め後ろの、チェリビダッケの息遣いが聞こえ、表情まで見えるところにいた私は、それらの動作とは正反対の、隙のない音楽作りと、彼が時折見せる鋭く厳しい目付きに冷や汗が流れるような気分がして、とてもくつろいで音楽を聴いていることなどできなかった。せっかくチェリビダッケの実演に接する貴重な機会だったのに、曲目がベートーベンやブルックナーでなかったのは残念だったが(もっとも、まだ20歳過ぎだった私にはブルックナーが演奏されても、その価値に気づけなかっただろう)、これはこれで貴重な体験だったと思う。今でもその印象は鮮明だ。