チェリビダッケ雑感(1)



 11月3日に、仙台では久しぶりとなるブルックナー交響曲第8番の演奏会があるというので、これは何としてでも聴きに行かなければ、と思いながら、これまた久しぶりで録音をあれこれ聴いてみたいと思い、そんなことに時間を費やす夜が続いていた。

 私は今まで、朝比奈隆が1994年に大阪フィルを振ったものと、マタチッチが1984年にNHK交響楽団を振ったもの(どちらもライブ録音。前者には延々13分の拍手が入っている。後者については、今年の3月21日に少し書いた)を愛聴していて、それですっかり満足していたのであるが、せっかくの機会なのでと、わざわざ今まで持っていた6種類の他に、3種類の録音を買い足した。今までの6種類とは、上の2つの他に、ヴァント(ベルリンフィル、2001年)、クナッパーツブッシュウィーンフィル、1955年)、シューリヒト(同前、1963年)、ショルティ(シカゴ響、1990年)である。そして今回の3種類とは、クーベリックバイエルン放響、1977年)、インバル(フランクフルト放響、1982年)、チェリビダッケミュンヘンフィル、1993年)である。

 その中で、私が特別に深い感銘を受けたのは、チェリビダッケによる演奏であった。

 チェリビダッケ(1912〜1996)はルーマニア生まれである。1945年8月にベルリン放送響主催の指揮者コンクールに優勝するや(審査員全員一致)、フルトヴェングラー不在のベルリンフィルを指揮してデビューし(←いくら終戦直後の混乱期とはいえ、こんなことがあり得るのか?!と思ってしまう)、圧倒的な成功を収め、非ナチ化裁判を終えてフルトヴェングラー復帰するまでの7年間、同オケを率いた。その間、大成功を収め続け、聴衆の大きな支持を得ていたにも関わらず、いろいろな軋轢が生じてベルリンフィルを離れ、その後は各地のオーケストラを転々とするようになった。大の録音嫌いだったこともあって、名指揮者としての声望並々ならぬものがあるのに、実際に演奏に接した人は限られ、「幻の名指揮者」と言われていた。日本では、1977年と78年に読売日本交響楽団に客演したあたりから知られ始め、1980年にロンドン交響楽団との来日公演がNHKでも放映されたことで、一気にベールがはがれたように思う。

 偏屈、独善的な上、とにかく練習の厳しい人で、通常の指揮者の何倍もの練習時間を要求するため、正に比類のない際だった実力は認めながらも、この人を呼ぶことはオーケストラにとって負担が大きかった。だから、一流の指揮者によって飛躍を望んでいた二流どころのオーケストラが、この人を大切にすることになった。それが、スウェーデン放送響(1963〜71年)であり、シュトゥットガルト放送響(1972〜77年)であり、ミュンヘンフィル(1979〜96年)であった。

 私も、1980年に初めて、噂で聞いていたチェリビダッケの演奏を聴いた(テレビで見た)。プログラムの中でよく覚えているのは、『映像』の「イベリア」と『展覧会の絵』だが、感銘を受けたということで言えば、アンコールとして演奏されたプロコフィエフの「タイボルトの死」(バレエ『ロメオとジュリエット』の中の1曲)だったような気がする。あまりにもスゴイ音楽だった。重量感というか、構築性というか、集中力というか、強靱な意志の力というか・・・。これはやはり、ドビュッシームソルグスキーラヴェル)やプロコフィエフの音楽ではなく、チェリビダッケの音楽だと思った。

 しかし、実は今回まで、私の手元にチェリビダッケの録音はひとつもなかった。それは、その後何かの機会に聴いた彼の録音が、あまりにもテンポが遅かった上、録音も悪かったからである。なるほど、この人の音楽には非常に強い癖がある上、「録音嫌い」であるために、隠れて録音したような、音質の悪い録音しかないのだろう、実演以外でその演奏に接しても理解できない人なのだ、とすぐに判断し、追うことを止めてしまったからである。また、長い間に渡って彼の録音は希少価値で、廉価盤が出回らなかったことも、私が録音を一切持たずにいた理由であった。私は音楽大好きではあるけれども、おそらく「マニア」というレベルではない。だから、その後、CDの世界でチェリビダッケがどうなっているかなど知らずに過ごしていた。

 ところが、今回、ブルックナー交響曲第8番の録音を探していた時に、チェリビダッケが演奏した第3〜第9交響曲チェリビダッケは第2番より前の交響曲をレパートリーにしていない)+テ・デウム+ミサ曲第3番のCD12枚が、たった3290円で売られているのを見つけたのである。しかも、1990年前後の非常に新しいライブ録音である。これならリスクを気にせずに買える。こうして、チェリビダッケの録音が初めて私の手に入った。(続く)