デートDV?・・・余計なお世話である



(10月25日付学級通信より)


 毎週のようにこんなプリントを出しているが、諸君も知るとおり(?)、プリントを出した後で、文章を手直ししながらワープロ打ちし、その日の私のブログに公開している。その作業の最中に、必ず誤字や誤表現を発見しては地団駄を踏んでいる。欲しいという人がそれなりにいるので、職員室内の何人かの先生に配った結果、その人たちに間違いを指摘されるということもある。

 例えば、先週は「計り知れない」と書くべき所を「測り知れない」と書き、その前の週は「山中教授」を「山本教授」と書いてしまった(何回かのうちの1回だけだけど・・・)。また、「彼は〜が盛り込まれていたのである」と、主述が正しく対応していない文がひとつあった。もちろん、正しくは「彼の話には〜が盛り込まれていたのである」か「彼は〜を盛り込んでいたのである」だ。

 わずか1時間ほどで、諸君の1年分くらいの作文を書いているわけだから(笑)、ある程度は仕方ないのかな、と思ったりもするが、やはり一人の大人として悔しい。ワープロで原稿を作っておいた上で、それを紙に書き写せば多少間違いは減ると分かっているのだが、大抵は非常に衝動的な作業なので、それもなかなか難しい。ま、間違い探しで生徒の国語力を伸ばしてやろうという、国語教師としての親心だ、と思ってもらうしかない。いや、それは事実である(笑)。


デートDV講話に思う】

 月曜日のLHRに行われた「デートDV防止教育プログラム〜対等で尊重のある関係を築くために〜」という講話を、諸君はどのような思いで聞いていただろうか?私は、言っちゃ悪いが、こんなことを「教育」する必要ってあるのかな?と思いながら、少し腹立たしい思いで聞いていた。最近は心のケアとかフォローとか言って、人の心の中の問題に世話を焼こうとする傾向が非常に強い。そのほとんどは余計なことである。先日の講話も、その類だ。

 「デートDV」という言葉は、多分新しい言葉だろう。こんな言葉が発明されることによって、いかにもそれが特別な悪であるとか、最近の若者の恋愛はケシカランとかいうような印象を受けるが、全然そんなものではない。事例として取り上げられていた彼と彼女のトラブルは、基本的に青年期の恋愛に非常に強く表れる(特に男の側)のが当たり前の「独占欲」に基づいている、起こって当然のことばかりだ。本当に異常な行動など、私の目から見ると何一つなかった(私が異常なのかな?)。

 どっちみち「恋愛」などというのは狂気の状態なのであって、その中で別れたりくっついたり、傷ついたり挫折したりしながら、人間の円満なる生き方を学んでいく道場のようなものだと私は思っている。そういう体験が、誰の身にも起こるということくらいは、心の準備として教えても悪くないかも知れない。しかし、許されるのはせいぜいそこまでで、「教育」によってそれを「防止」したりなどしたら大変だ。人は身をもって学ぶチャンス失い、重大な副作用を生むに違いない。人間は、その生き方を、生きることによってのみ学んでいくのである。

 人との関係において大切なのは、相手の気持ちを考えられるかどうかである。それは恋愛に限らない。その原則を頭に置いた上で、恋愛を始めとする様々な人間関係に悩み苦しみ、時間をかけて自分の力で少しずつ賢くなればよい。


*文化祭に関する記事省略


(裏面:10月6日付『朝日新聞』土曜版「be」より、「beランキング 美しいと思う季節の日本語」 平居コメント:日本語いいなぁ!)