今の解散には「大義」がない



 今に始まった話ではないが、国会がもめている。とりあえず感覚的に不愉快なのは、自分たちが政権の座につきたい、今選挙をすれば、間違いなくそれが実現するであろうと、ただそのためにひたすら解散を求める自民党の浅ましい姿である。今の解散に大義があるのだろうか?私はないと思っている。大義があったとすれば、それは消費増税が提案された時(可決前)であった。

 私は以前から意外に強固な消費増税主義者(正しくは、借金早期返済主義者)なのであるが、自分の主張と一致するから増税が実現されればそれでいいとは思っていない。手続きもまた民主主義の重要な要素である。「代表なくして課税無し」という言葉もあるように、税金をどうするかというのは、政治的に非常に重い決定事項である。民主党マニフェストに書いていなかったこと、しかもそれが税金の問題だとなれば、それは3年前の信託の範囲外であって、解散して信を問うというのは当然でさえある。

 しかし、その法案には賛成しておいて、どう考えても、本来は今年度予算と表裏一体、別立ての法案になっていること自体が不思議なほどの特例公債法案を人質に取る形で解散を迫るのは、正に正気の沙汰ではない。

 確かに、突然持ち出された消費増税のみならず、民主党政権運営のお粗末さは話にならない。私も重々承知し、人並みにうんざりしているつもりである。しかし、「任期」とは何か?なぜ衆議院の議員は任期が4年なのか?というと、とにかくまずは4年間やらせてみようという、期待と覚悟の表れではないのか?その場その場のご機嫌取りに終始するような拙速な政治ではなく、4年間の時間的スケールで物事を進めて欲しい、いいことも悪いこともするだろうが、その中で学んで政治家も成長して欲しい、という時間なのではないだろうか?だから、現実によって修正を迫られたという以上の、大きなマニフェスト違反をする時には解散もいいけれど、そうでなければ4年間は悪くてもじっと我慢する、というのが正しいのではないか。私はそう思っている。

 もう一度確認するが、本当は消費増税について解散し、信を問うべきであった。しかし、その時期を過ぎてしまった以上、とにかく4年はやらせてみる、という原則に立つべきだ。 ひたすら権力を求めて政治的抗争を続ける姿を見ていて、人々はますますうんざりする。仮に自民党が思いを遂げて、解散を勝ち取り、再び政権政党になったとして、それは、民主党の自滅と低い投票率のおかげで、いわば相対的に優位に立つだけの話である。それで、国民の信を得たのはやっぱり我々だ、と威張られてはたまらない。一連のごたごたに乗じて維新の会が急成長するなどというのは、更に悪夢だ。