イグアス・・・音の記憶



 今、授業で村上龍が書いた『パラグアイのオムライス』という作品をやっている。ブラジル・アルゼンチン国境にあるイグアスの滝で、若い女性歌手のプロモーションビデオを撮影した時の思い出話という設定の話だ(「設定の」と書いたのは、この話に出てくる女性歌手がどうしても探せず、虚構と思われるから)。

 イグアスの滝なら、私も行ったことがある。1989年1月16日だった、と思う。しかし、村上龍が描いているイグアスの滝は、私の記憶とずいぶん違う。もっとも、私が滝を訪ねた1988〜9年の夏(ブラジルは南半球なので、年を跨いで夏)は、記録的な渇水だとかで水量が少なく、5キロに渡って続くという大瀑布も、あちらこちらに水の落ちていない所があるという状況だった。宿で泊まりあわせたドイツ人旅行者が、「イグアスの滝(Iguacu falls)ではなくイグアスの壁(Iguacu walls)だ」と駄洒落を飛ばしていたくらいである。

 村上は、「その景観は一瞬のうちに見る者からあらゆる形容の言葉を奪い取って、とてもこの世のものとは思われない」と書いているが、私は「なんだ、こんなものか?」と思った。南米大陸では「空間」を含めたあらゆるもののスケールが大きすぎて、そこに5キロの滝があるからと言って、壮大なスケールにはどうしても感じられないのである。近くにある世界最大のダム・イタイプーだって同じことだ。広大な南米にあるイグアスの滝よりも、繊細な日本の地形に抱かれた尾瀬の三条の滝の方が、よほど迫力を感じさせる。

 しかし、私が最も違和感を感じたのは、「幅1メートルほどのコンクリート製の橋を『喉首(平居注:イグアスの滝で最も奥まった所にあって水量豊かな「悪魔の喉笛」のこと。「喉首」という表現を私は他で聞いたことがない)』に向かって歩いていくとジェット機の爆音に似た音がしだいに大きくなり〜」という下りだ。私は当惑を覚えた。どうしても、イグアスの滝の音が思い出せないのである。確かに、渇水状態とは言っても、三条の滝の数十倍どころか数百倍かも知れない大きさの滝である。轟音がとどろいていない訳はない。だが、やはり音の記憶はない。

 東日本大震災の際、津波が押し寄せてくるのを目撃した人で、音が聞こえなかったと言う人は少なくないような気がする。目の前で家が流されていながら音がしないというのはあり得ないし、実際、バリバリという大きな音を聞いたという証言もまた少なくない。DVDになっている記録映像を見てみても、水の流れる音、物が壊れる音はすさまじい。にもかかわらず、「音もなく」と言う人は少なくない。

 以前私は、「においの記憶」について書いたことがある(2010年5月18日)。ある家から漂ってくる香の香りが、インドやネパールを思い出させる、ということをきっかけに、嗅覚というのは非常に記憶性に富む感覚なのではないか、ということを書いたものだ。一方、今回のことは、聴覚がひどく記憶性の低い、曖昧な感覚だということを意味するようである。これが学問的に根拠のあることなのかどうかは知らない。ただ、イグアスの滝の風景は鮮明に脳裏に蘇ってくるのに、いくら思い出しても、その水は音もなく流れ落ちているのである。


(補)この記事を書いて間もなく、読者の方から、人間の感覚についての興味深い記事を教えていただいた。

http://okwave.jp/qa/q3504995.html