「船頭」は偉い・・・第三十五・八興丸を見て



 今日、ついに我が家でウグイスが鳴いた。昨日は水仙も開花した。春は本番である。

 さて昨日、3月27日の『水産経済新聞』に載った、八興漁業という会社が作った第三十五・八興丸(499トン)という新造船についての大きな記事を読んだ。八興漁業は、宮水からも毎年のように生徒を採用してくれる身近な会社である。今回の船は、水産庁の「もうかる漁業」支援事業から補助を受けて作られた最新型のもので、今まで船団方式で行っていた巻き網漁を一隻でできるようにした画期的な船だという。記事には、28日の午後、関係者に公開すると書いてある。航海類型のO先生や、マリンテクノ類型のS先生が行くらしい。O先生に聞けば、「宮水の職員だって言えば大丈夫だ」と言われたが、なんとなく不安なので、O先生に連れて行ってもらうことにした。

 石巻工業港に着くと、おびただしい数の大漁旗を掲げたピカピカの新造船はすぐに分かった。真っ白で大きく、スマートな格好いい船である。

 ヘルメットと軍手とスリッパを渡され、船に乗り込む。会社の人や船員さんはほとんどおらず、どこもかしこも開けっ放しで、本当に自由に見て下さいといった感じだった。最初のうちは、O先生の後について、いろいろと説明してもらいながら見ていたのだが、私があらゆる所を興味津々で見ているうちに置いてけぼりを喰い、デジカメ片手に、一人で回ることになってしまった。

 新造船ということもあり、あまりにもきれいすぎて、「漁業」という激しい「労働」の現場には見えなかった。また、魚処理室という船倉など、甲板にあるハッチのすぐ下で、当然、実際にはハッチが開いて大量の魚がものすごい勢いで流れ込んでくる場所なのだろうが、そういう時の状況を実感を持って想像することは難しい。オブザーバー室というお客さん部屋も二つあることだし、条件の厳しくない時に、1〜2日同行させてくれないかなぁ、と思った。

 何もかもが驚きだったのだが、特に印象に残ったのは漁𢭐長室である。いくつか見た居室の中で、際だって広く、優雅だった。

 宮水に赴任してまだ2〜3ヶ月しか経っていなかった頃、ある会議で、「宮水の使命は船舶職員を養成することだ」という話を耳にした。船に乗る生徒なら、毎年10名前後はいるのに、いかにも「なかなか船舶職員になる生徒がいない」みたいな言い方をするのは変だといぶかしく思っていたところ、やがて、船に乗っている人全てをそう言うのではなく、「船舶職員」とは管理職だということを知って、業界用語は難しい、とつくづく思った。その時、「船の中で絶対的な命令権を持っているのは船頭だ」ということも聞き、「船頭」が「船長」ではなく、「漁𢭐長」であることを知って、再び頭を抱えたことも強く印象に残っている。そもそも、船で一番偉いのが「船長」であることは、私にとっての「常識」であった。なぜ「船長」の更に上に絶対的な権力者がいるのかは分かりにくかったし、実感を持てなかった。

 その後、漁𢭐長という立場の人が、いつどこでどのように網を入れるかを決める人で、漁獲量に絶対的な責任を持ち、だからこそ、船長を上回る権限を持っている、ということは理解できるようになった。そして今回の「漁𢭐長室」である。なるほど、この部屋にこそ「漁𢭐長」という立場の大きさが表れていると納得できた。漁𢭐長室と船長室・機関長室の差よりも、船長室と一般の船員室の差の方が小さいような気がした。同時に、この部屋の違いは、直ちに収入の違いでもあるのだろう。

 O先生によれば、漁𢭐長というのはそれほど絶対的に(つらい)責任を背負っているということであり、部屋の質によって待遇を可視化することで、他の船員に「漁𢭐長を目指して頑張れよ」と会社がメッセージを送っていることでもあるのだそうだ。なるほどなぁ、と思う一方、運命共同体である一隻の船の中に、それほどの格差があることは、逆にやりにくい、若しくは居心地の悪いことでもあるのではないか、とも思った。漁𢭐長が一般船員と同じような条件で生活していてこそ、漁𢭐長という高い地位の人でさえそんな条件で頑張っているのだから、俺もグチなんかこぼしていないで頑張らなくては、と思う心理もあるような気がする。その格別な待遇を居心地が悪いと感じないためには、それに見合う圧倒的な「自信」を持つことが必要だろう。実力の有無と関係なく、私には、そんな「自信」を持つことが常に難しいし、あの部屋に居て居心地を悪いと感じずに済む人が羨ましい。ま、私という人間は常に「末端」がふさわしい、ということだ。

 先日卒業し、八興漁業に就職が決まっており、4月から別の船に乗るAが、友人Kと見学に来ていた。もともと、自分の思いをあまり顔に出さないAであるが、少し話をしながら表情を伺っていると、4月から始まる仕事への不安と期待というようなものが伝わってくる。それがなんだかひどく新鮮で若々しいものに感じられた。意外でもあり、嬉しくもあった。