緑の党(1)



 冬休みに関西旅行に出掛ける際、船の中で読む本を何にしようかと思い、すぐに読みたい新刊書もなかったので、我が家の書架を眺めていたところ、永井清彦『緑の党』(講談社現代新書、1983年)という本が目に止まった。そう言えばドイツにそんな政党があったな、という程度のことを思っただけで、買った直後に読んだ記憶も甚だ希薄なのだが、なんだか不思議と気になったので、小さな本であるのを幸いと、持参する数冊の中に入れた。

 往復の船の中で2回読んだ。最近の私の問題意識と、「緑の党(正しくは「緑の人々」)」の考えは驚くほど近かった。

「「緑の党」の主張は、一言に尽くせば産業社会の否定である。より多く作り、より多く消費し、この“地球号”を使い尽くし、破壊していく巨大技術と、その技術を管理するための巨大組織 ―― これらを否定する、かつてない異質な政党の登場」

 今まで私のブログにお付き合い下さっている方には、これがいかに私の考え(→例1例2)と近いかよく分かって下さるだろう。

 「緑の党」は、理論よりも実感に基づいて行動すると作者は言うが、環境を最優先に考え、持続可能な社会を作ることを原点に据えている限り、理論は自ずからその上に組み立てられる。むしろ、環境問題の悪化による生存環境の破綻というものは、圧倒的多数がいまだそれを実感できるレベルには達していないのであるから、「緑の党」が実感に基づくという場合の実感は、かなり限定された範囲のものになるだろう。

 その「緑の党」にとって、理論的な支柱とも言うべき人物は、エーリッヒ・フロムである。この本の中でたびたび引用されるフロムの『生きるということ』という本は、我が家の書架から出てこなかったので、やむを得ず、本の中からフロムに触れた部分を、作者の解説とともにいくつか引用してみよう。


「『生きるということ』の中でフロムは、「生死に関わる問題で、人間は致命的に受け身の態度を見せる」こと、そしてその理由は、「あまりにも極端に生き方を変えなくてはならなくなると、人々はいま犠牲を払うよりは、将来の破局を選ぶ」からだ、という。だとすれば、「緑の人々」は、いま犠牲を払おう、一刻の余裕も許されない、と思いつめている点で、他の市民たちと異なっているのではないだろうか。」

「フロムは「だれもがより多く持つことを望む」生き方を否定するところから出発する。そうした欲望に支えられた社会では、「体制の成長にとってためになるものは何か」が「〈人間〉にとってためになるものは何か」の問いに優先する、というのである。「ある」ことが「持つ」ことより大切だ、というフロムは、「あること」とは「人が何も持つことなく、何かを持とうと渇望することもなく、喜びにあふれ、自分の能力を生産的に使用し、世界と一つになる存在様式」と定義する。より多く生産し、消費するという産業社会の原理の否定である。」

「フロムは、さきの本の中で、「持つ存在様式の個人間の関係における基本的要素は、競争、敵意、恐れである」ことも指摘している。「持つ」原理に立つ社会の非人間性の根源も衝いているのである。」


 人は目前の欲望に流される。今の犠牲よりも将来の破局を選ぶ。今の人々の行動を見ていると、このことを実感として理解することは容易である。では、なぜ「緑の人々」がその例外であり得るのか、「緑の人々」に集まってきている人とはどのような人々なのか。

 それは、若く、インテリ(ホワイト・カラー)であり、かつての社民党(←西ドイツ社民党なので、今の日本の社民党とは無関係)支持者であるらしい。従って、「緑の人々」に票が集まるのは、第3次産業を中心とした大都市である。「緑の党」創設者の一人であり、党をきっての理論家であるというバーロは、「緑の党」の支持者を「余裕意識」の持ち主であると言う。彼の言う「余裕意識」とは、人間の生存のため、どうしても必要であるものにかまけて気持ちのゆとりを失っている「被吸収意識」と異なり、将来必要となったり、自らを脅かすかもしれないことに対処していける、活力ある精神的力量のことである。なるほど、「若い」かどうかは別として、かなり私の実態に近い。

 私は、様々な政策において日本共産党に共感を覚えることが多いが、一方で政党としての体質に対する抵抗感があって、付かず離れず、是々非々の態度をとり続けていることは書いたことがある(→こちら)。一方、環境問題への危機感を強める中で、私は、環境の保全を最優先に考えれば、いろいろな政治的課題が自然と解消されていくことに気が付いた。経済成長を目指し、より多く持とうとすることを止めれば、環境のみならず、世の中の対立、争いの多くは不要となるのである。共産党の思想の根幹は階級闘争である。おそらく、共産党も経済成長は否定せず、ただそれによって生まれる利益の分配が極度に不公平となることを問題視するのである。おそらく、私が共産党に対して感じる違和感の根っこに、階級闘争の理論があるのだ。

 

 「(緑の党は)資本の側の代弁をするか、労働の側の立場に立つか、保守か革新か、という従来の二分法のどれにも当てはまらず、彼ら自身の言葉によれば、「右でも左でもない。前に進んでいる」のだという」


 これもまた、私にとっては意に適った言葉であった。(続く)