緑の党(2)



 「緑の党」の歴史と、そこにおける方向性模索の議論の中で、私が最も興味引かれたのは、失業問題についての議論である。1980年代初頭、西ドイツの失業者は200万人を超えていた。環境を柱とする政党が、それにどのように取り組むのか。議論は割れた。

 あるグループは、「現状では地球の破滅が近付くことを確信、これを防ぐことこそ一切に優先するとの見解に立つ。真のエコロジストたるものは、500万の失業者すら甘受し、その圧力のもとに現産業体制が崩壊し、権力がいわば自動的に自分たちの手に落ちてくるまで待っていなくてはならない。(中略)したがって、失業対策を経済対策に盛り込むことはない」と主張した。これに対してもう一派は、「環境保護のための国の投資を大幅に増加し、具体的な個別策によって失業をなくしていくべきだとの立場」に立つ。「「なにがなんでも雇用の創出というのは受け入れられない」が、「ソフト・エネルギー、住宅、交通、環境保護などの分野での投資は必要かつ可能」であり、「長い目でみると社会が必要とする労働の量は減少していくから、週労働時間の短縮が不可欠」」と主張するのである。

 私は、どちらかというと前者に同意するのだが、果たして、真の同意であるかどうかは分からない。なぜなら、500万の失業者の圧力によって政権が崩壊した場合、新たに政権を取ると想定されている「緑の党」が、その後どうすることによって失業を解消させるのかというビジョンが見えないからである。

 私は以前から、極端な環境保護政策を採った場合、経済は大崩壊するが、生存のためにそれを甘受すべきだ、と言っている。だが、経済が大崩壊すれば失業者が増えるかというと、決してそうとは言えない。自動車産業が崩壊すれば、代わって、公共交通機関の職員や地域の商店が息を吹き返すだろうし、土木工事などで人海戦術を必要とされる場面が大きく増えると思われるからだ。労働時間の短縮が可能なのは、石油を燃やすことで、機械に人間の代わりささせられるからである。石油を燃やさなければ、今の生産を維持することは出来ず、少しでも今に近い生産を確保しようとすれば、むしろ労働量は増えるのが当然である。環境最優先の思想に立って、「社会が必要とする労働の量が減少していく」と考えるのは、ナンセンスである。

 だが、ここで注意しなければならないのは、増える仕事の多くは、今の人々があまりやりたがらない肉体系の労働になるはずだ、ということである。人は、自分たちにとって都合のいいことばかりを考える傾向がある。それは、今のままの生活を享受していても、決して地球が人の住めない環境になったりしない、と考える人たちばかりではない。環境至上主義者でも、産業社会を否定した後に「緑」の社会が到来するとまでだけ考え、そこで忍ばなければならない非効率、不便、肉体的な過酷といったものには、とんと意識が及ばない人は少なくないだろう。これは、自然主義者が、牧歌的な農村生活を夢見、そこにかつて蔓延していた風土病や不衛生、過酷な労働に思いを致さないのと同じことである。

 「緑の党」の理念はすばらしい。今後、人類が生き延びるためには、やはり環境の問題を最優先に考えることがどうしても必要であり、それとともに、人間的な交わりを回復させて行くことが必要だ。だが、そこで問われるのは覚悟である。今の豊かで快適な生活の多くの部分を犠牲にすることなく、産業社会を否定することはできない。「緑の党」に集まり、同じ方向を向いて旗を振っているだけの時にはいいが、人間的交わりが回復された時、その関係は今よりもウェットであり、多くのストレスをももたらすはずである。都合のいい夢ばかりを見るのではなく、夢が実現した時には、今に代わるまた別種の厳しさが生まれてくる、それを本当に引き受けられるのかどうか・・・?最終的に問われてくるのはそこである。

 失業問題以外にもう一つ、私が気になったのは、「緑の党」の支持層は圧倒的に若者であり、その若者は西ドイツにおける平和運動の担い手の中心だ、ということである。「緑の党」が反核を旗印の一つにしているというだけでなく、運動の場に人間的な触れ合いを求めて参加してくる若者がまた少なくないらしい。


「若い魂の叫び、悲鳴は、西ドイツ社会の病根をついている。「業績社会」「物質至上」「生産拡大」「消費プレッシャー」に反発し、「家族」「友情」「同志愛」を求める悲鳴に似た声が聞こえるのは、これらが過剰であり、そして欠乏しているからである。

 「緑の人々」は、まさにこうした土壌から育ってきた。彼らの願いは「緑の地球」であり、そしてまた、いわば「緑の人間社会」なのである。より人間的で、互いに助け合う、ぎすぎすとした競争に明け暮れることのない社会を「緑の人間社会」と呼ぶとすれば、「緑の人々」が求めているのは、自然と人間社会の両方の緑化である。」


 これは、非常に健全で共感できる意識であり動向であるように思う。だが一方で、作者が描くような西ドイツの若者を取り巻く環境、若者の置かれた状況は、日本でもほとんど変わらないはずなのに、なぜ日本では若者が外に出て繋がり、社会的なエネルギーを帯びた存在になって来ないのだろうか。もちろん、作者もこのことは問題としている。だが、確たる答えは見出せていない。かろうじて、商業主義、消費への意欲が盛りを過ぎた西ドイツに対して、日本ではまだまだそれが旺盛である、ということを指摘しているに過ぎない。

 作者がその指摘をしたのは、1983年である。それから30年以上が経った。信じられないほど多くの物が身の回りに溢れ、資本主義の行き詰まりとも言うべき人間疎外による弊害も、看過できないほど深刻になっている。しかし、日本の若者は、ますます社会問題から遠離っているように見える。まして、社会全体に対する影響力を持つほどに、そのエネルギーが結集されてくる可能性など感じることができない。このことは、日本と西ドイツの若者の社会参加へのバイタリティーの違いが、作者の言うような商業主義によるものではなかった、ということを意味するだろう。では、いったい何なのか?どうしてもその答えは見えない。

 作者は、「いまや“地球号”の命運が差し迫っている」と書く。これは驚きだ。日本で環境基本法が制定されたのは1993年のことだ。環境問題が差し迫ってくるのは、今世紀に入ってからだと私は思っていた。ところが、1983年の時点で、作者は上のように書き、西ドイツでは「緑の党」が一つの勢力を作りつつあった。だとすれば、それから30年が経った今、地球の命運は更にのっぴきならぬものになっているはずである。ドイツの「緑の党」が、その後どうなっているのかは知らないが、市民運動の枠から一歩進んで、そのような政党が存在することはどうしても必要であると思われる。

 話はまとまりなく中途半端だが、今回は1冊の本の感想限定ということで、これでおわり。いずれまた。