私も自宅待機!

 新型コロナウィルスの感染拡大が止まらない。ただ、修学旅行中止の決断に関わった私は、毎日、奈良、三重でも多くの感染者が出ていることを確認しては胸をなで下ろしている、というのが正直なところだ。「胸をなで下ろしている」というのは、安心の表現であり、通常、感染者が少ない時に使う表現だろうが、今回の場合は違う。人口比で考えて宮城を遙かに上回る感染者が出ているとなれば、修学旅行の中止がやむを得なかったものとして納得され、受け入れられてくる。それこそが「安心」の内容なのだ。ここで、奈良・三重が「第三波」から無風だとなれば、「行けたんじゃないの?」となりかねない。先の状況を見通せないのは仕方のないことであって、状況が悪化したにしても好転したにしても、それは「運」「偶然」でしかないにもかかわらず、だ。
 石巻に住む私にとっても、感染はずいぶん身近な問題になってきた。なにしろ、石巻地区の二つの高校で感染者が出て、休校措置が取られているからだ。幸い、私の勤務先ではまだ感染者は出ていないが、特別立派な対策を講じているとか、みんなの意識が高いから出ていない、というわけではない。今のところ「運」がいいだけだ。感染者の発生も時間の問題だろう。
 感染者が出たところで、重症化率、死亡率の低さからいって、さほど気にするようなことではないように思うが、世間でそれを問題視するものだから、おそらく煩わしいことがたくさん起こるのだろうと想像すると憂鬱になってくる。
 実は、私の知人が勤務する会社で感染者が出た。すると、驚いたことに、たくさんの電話がかかってくるのだそうだ。この話を聞くまで、私は感染者に対する誹謗中傷なんて、例外的な現象だろうと思っていたのだが、知人の話を聞くとそうではないらしい。「どうして感染者を出したのだ?(←会社が意図して出したわけがない。落ち度があったとも思えない。聞かれたって困る!)」「感染したやつの名前を教えろ(←聞いてどうするんだろう?)」「休業中のはずなのに、おたくの社員が外出しているのを見た(←どうしてうちの社員だって分かるの?問題だったら、その場で注意してくれよ)」などなど、電話がたくさんかかってきて困っているのだそうな・・・。おそらく、電話をかけている人は、自分は絶対に感染しない、と思っているのだろう。その脳天気さが羨ましい。どう考えたって、自分が気をつけていれば絶対にかからない、などということがあるとは到底思えないのだけれど・・・。
 かく言う私も、実は、家族の一人が出入りしている場所で感染者が出たものだから、その家族が濃厚接触者には指定されなかったものの、PCR検査の対象になってしまった。そうなると、自動的に私まで自宅待機を命じられる。それで、昨日は自宅にいた。「職専免」=「職務に専念する義務の免除」という制度を使っての自宅待機なのだが、それでも仕事は減らせないし、待ってもくれないので、仕方なく手続きをして定期考査の答案を自宅に持ち帰り、自宅で「職務に専念」していた(笑)。しゃれにもならない。
 今日、検査の結果が出て「陰性」とのことだったので、火曜日からは出勤が可能になった。仮に「陽性」だったとすると、なんと2週間の自宅待機となる。それで、「いやぁ、平居先生いなくても何も困りませんよ。せっかくの機会なんだからのんびりしてて下さい」などと言われたら、それはそれでショックだな、などと思っていたが、幸か不幸か、とりあえず今回はそういうことにはならなかった。
 感染防止というなら、「Go to 何とか」の見直しは当然だが、勢い余ってか、首相が「マスクを付けての飲食」とか言いだしたのには驚いた。昨日は東京都知事が、「5つの小」とかいって、飲食の心得を説いていた。「小人数」「小皿で料理を取り分け」くらいはまだいいとしても、「小一時間」「小声で」とか言われると、なんだかこそこそ悪いことをしているみたいで、「だったら行かない」と私なら思う。
 経済活動の維持と感染防止の兼ね合いは、確かに頭の痛い問題だ。以前から、私も言っているとおり、コロナ禍による倒産、失業者の増加というのは、むしろ今後のことである。半年なら耐えられても、1年は無理という事業者は多いだろう。
 人間が食べて出すという基本において何も変わらないのに、多くの職業が苦境に陥るというのは、「豊かな生活」と言いながら、多くの人口を維持するために仕事を作り出してきたことを表している。膨大な人間が絶えず広域移動し、交通機関、宿泊施設、飲食店を利用していないと成り立たない社会というのは、そもそもそんな社会構造に問題があるのだ。今の社会を見ていると、そのことが私には実によく分かる。にもかかわらず、従来の価値観を問い直すような発言は聞こえてこず、少子化も問題とされ続けている。私には不思議だ。
 感染症問題で人間が経済活動を規模縮小すれば、環境問題で危機的状況にある今、人間にも生き延びる可能性が生まれてくるかも知れない。ウィルスは私たちの異常な生活に、何かしらのメッセージを発信しているように思われてならない。だが、そのメッセージに耳を傾ける謙虚さを持たなければ・・・やはり人間の社会は行き詰まり、崩壊する。私たちは問われている。