コロナ禍のQOL

 一人暮らしをする母親の衰えがひどく、「介護」とまでは言えないが、「生活支援」のためにたびたび週末に実家に帰るという話は、おそらく既に何度か書いた。また、1月に転倒して鎖骨を折ったということも書いた。
 一応普通に生活してよいレベルという診断は受けたのだが、やはり多少の痛みはあるし、もともと自活ギリギリだった生活が更に不自由になるのは大変だ、ということで、母親はその後某老人介護施設ショートステイに入った。約1ヶ月半の滞在を経て、母親が「退院」したのは先月の末であった。1ヶ月半の間に、私が施設を訪ねたのは1回だけである。「それは薄情な!」という声があるのは分かる。自分としても本意ではない。しかし、行っても会えないから行かなかったのである。
 理由はもちろん、感染症予防だ。私が訪ねた1回は、「要支援」から「要介護」への認定切り替えに関する手続きのためだったのだが、この時も、直接会えたのは介護施設の担当者や新たに担当者となった介護支援専門員の方だけで、母とは事務室のタブレットの画面を通して、数分間の話ができただけであった。
 こうなると母は気の毒である。介護施設と言えば聞こえはいいが、檻の中と同じだ。外界からまったく隔離された、極めて閉鎖的な空間の中で、本や身の回りの何かを新たに手に入れることも容易ではない。
 私の母だけではないだろうが、施設に入っている人の多くは、平均寿命との関係で考えれば、残りの人生が数年という方々だ。いつ果てるとも知れない感染症予防のための隔離が続き、場合によっては家族や友人とも会えないままに生を終える可能性がある。彼らにとっては、残された1日、1ヶ月、1年という時間が、おそらく若者にとって以上に貴重である。その生活を感染症予防という一事のために制限することは、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)にとって大きなダメージだ。病気の治療のためにQOLを犠牲にしないという考え方は、かなり浸透していると思うが、感染症予防との関係でそれをどのように確保するかは、果たして考えられているのだろうか?
 もちろん、病気治療と感染症対策が同じでないことは分かる。前者はまったく個人の問題で済むが、後者は個人の問題に止まらないからである。そこに、施設としての苦悩もあるのだろう。悩ましい。だが、入所者の多くが、命のためなら誰とも会えなくてかまわない、施設の外に一歩も出られなくても仕方がないと、本当に考えているものだろうか?私には、とうていそうは思えない。
 たとえ体が不自由で、何をするにも時間がかかるとしても、自宅に戻った母は生き生きしている。施設に入るにしても、私と同居するにしても、不自由と危険を忍んで一人自宅にいるにしても、母は自分のしたいようにすればいい。人間にとって「自由」ということ、自分の責任で生き方を選択するということがいかに重要か、香港やミャンマー以上に、私は身近な母から感じるのである。