復興祈念公園の市民フォーラム



 明後日は、震災から満4年の記念日。そこへ目がけて、この1週間あまり、身辺が何となく騒々しい。我が家から見下ろす南浜地区にくる観光バスや車の量が増えた。今日は、日和山から長い時間、和太鼓の音が聞こえていた。

 ところで午前中、私は、震災復興祈念公園についてみんなで考える「市民フォーラム」というのに参加していた。それは、我が家の目の前に出来る48ヘクタールの巨大公園であるが、新聞などでもずいぶん漠然とした情報しか伝わってこないし、一度きちんと説明を聞いておこうかと思い、わざわざ事前に参加申し込みをして出掛けて行ったのである。

 石巻駅前のビルの3階に集まったのは、石巻市長をはじめとして100人ほど。最初に、国土交通省のお役人による「宮城県における復興祈念公園基本計画(素案)について」という説明、次に某環境デザイナー氏による「石巻市南浜地区の未来をみんなで考える市民ワークショップの報告」というのがあった(ここまでで1時間)。ははあ、なるほど、現時点での計画はひどく大雑把で、ほとんど何も決まっていないのだ、ということが分かった。

 某環境デザイナー氏が、「せっかくですから何かご質問ありますか?」と言ったところ、某女性が質問をした。私も勢いよく手を挙げたのだが、最初の質問に若干の回答があったところで、参加者から「今は質疑する場なんですか?」という不思議なヤジのような意見のような声が出た瞬間に、なぜか質疑は打ち切りになってしまい、私は質問させてもらえなかった。その後、ミニワークショップとして、4人ひと組で、公園計画に対する様々な意見を出し合う時間となった。バカバカしいので、私は中座して帰って来た。

 なぜ私がバカバカしいと思ったかというと、巨大公園を作るということ、その大雑把なプランというものは確定していて、末端部分に関する意見だけが求められているということが、よく分かったからである。政治の世界で日常的に起こっていることだが、総論の部分はどこかであらかじめ決まっていて、異を唱えることは決して許されない、議論は各論の部分でのみ許す、というパターンである。

 私は、このバカバカしい計画には最初から反対で、昨年、パブリックコメントを出した時の話は記事として書いたので、ぜひお読みいただきたい(→こちら)。今日も、この公園を作るのにお金がどれくらいかかるのか、その後の維持費は年にどれくらいと見積もられているのか、といったお金に関する話は一切なかった。しかし、仮に私がその点について質問したら、計画が具体的になっていないので、いくらかかるか分からないという回答になるのだろうということは想像がついた。妙な話だ。自宅を建てる時でも、好き放題の設計をしておいて、それからお金の心配をする人などあまりいないだろう。予算を意識しながら、それでできる設計を考えるに違いない。お金の問題だけではないが、この復興祈念公園も含めて、震災後のドタバタがいかにバカげたもののオンパレードだったかということが、いずれ必ず明らかになると私は思っている。しかし、そうなるまでに何年かかるのかは分からない。

 ところで、某環境デザイナー氏の話の中に、現在の南浜町がどのような状態になっているか、という話があった。今日の話の中で一番面白かった部分である。それによれば、低湿地化した南浜町には、メダカ、カニ、エビなどがたくさん生息するようになっており、それに伴って野鳥の種類と数も大きく増えているという。津波のおかげで人間から自分たちの領域を取り戻した生き物たちが、正に息を吹き返して、今の状態を喜んでいるように見えた。そして、復興祈念公園というプロジェクトは、それを許しておけない傲慢な人間の仕返しのようだ。

 この野生生物たちの領域を、手を付けずに残してあげればいいのに、と思う。人間が住むのならまだしも、住まない上に、自然界にもダメージを与えるというのは正気の沙汰ではない。私がよく言うことだが、今の世の中、要は無駄に豊かで暇なのだな。

 1月15日の「天声人語」は、東洋大学の今年度版の「現代学生百人一首」を取り上げていたが、そこから選ばれ紹介されている歌には、本当に素晴らしいと思わせるものが多かった。その中の一首・・・

 「御嶽山噴火で気付く当たり前人も地球も生きていること」(高2、小岩瑞季