早くも見える、次の更迭



 昨日の続き。

 進路担当者の研修会(名称は「連絡会議」)は、博物館の講堂で開かれた。300人くらい入れるコンサートホール状の部屋である。早く来た人が座席の列の一番通路側に席を取るので、私が着いた時には、内側の席に入るために、座っている人にちょっとスペースを作ってもらわなければならない状況があった。下を向いて本を読んでいる人に、私が「すみません」と声をかけると、その人が顔を上げた。なんだ、旧知のS先生ではないか。

 隣同士に座り、久しぶりだったので、近況を述べあった後、講演が始まった。某就職関連民間企業から来ていた講師が、「少しだけ時間を取りますので、近くの方と20年後の社会がどうなっているかということについて話し合ってみて下さい」と言うので、講師の指示に従うというよりは、S先生と雑談を続けることになった。

 S先生がポロリと、「携帯電話さえ持っていない、時代に付いて行けていない人に、20年後を語る資格なんてあるでしょうかねぇ?」と言うので、私は、「携帯電話を持っていないお前に、20年後を語る資格などない」と言われたのかと思ったら、携帯電話を持っていないのはS先生自身であった。

 おお、大人で、携帯電話を持たない「同志」に会ったのは初めてである。「実は私も持っていないぞ、世の中に携帯電話ほど私が嫌いなものはないのだよ」と言ったら、S先生も大きくうなずき、その話で盛り上がりかけたところで、講師が話を遮った。(→参考1参考2

 S先生は、私よりも4つ若いのだが、30キロでも50キロでも自転車で行ってしまう強者である。福島県との県境に近い所に住んでいる。「今日も自転車?」と尋ねたら、恥ずかしそうに「電車です。時間の都合とかあって・・・」と小さな声で答えた。さすが、やっぱり車は使わない。

 それはともかく、講師はなぜ20年後の社会像を私たちに考えさせたのだろうか?その理由ははっきりしなかったのだが、その後、これからの時代に求められる学力の話、いろいろな職業について、その仕事をするために最も役に立つ教科は何かを高校生に考えさせた話・・・と続いたことから考えると、やはり先を見越して必要な能力を身に付けていくことが大切だ、という前提で論を進めていたのだろうと思う。いろいろなことを思う。

 生徒に何かを学ばせ、将来の職業を考えさせる場合、私は、時流に乗っていること、世の中から求められていること、を探させるのではなく、自分が本当に楽しいと思って出来ることを探させるべきだと思っている。これほど世の中の変化が激しく、浮き沈みの波も大きくなると、そこに付いて行く、まして先を見越して常に「浮き」の中にいられるようにすることなど出来るわけがない。

 人間は本当に好きなことをやっていれば楽しいし、それで世の中の人が注目してくれなくても、貧乏暮らしを余儀なくされるとしても、決して苦にはならないものだ。一方、好きでもないことを、周囲の状況と人のご機嫌を伺いながらやっていくことは苦であるだけでなく、世の中を間違った方向に動かすことになる。幸いにして、今の世の中、当面、「餓死」は心配しなくていいであろう。だとすれば、今、若者がやるべきことは、将来必要とされるものが何かを見通し、それに対応できるようにすることではなく、自分が好きなことを探すことなのだ。それをする中で、自分が好きなことをより徹底的にするためにはどうしたらよいか、と頭を使うことが、普遍的な何かの能力を育むことになるのである。伊福部昭ではないけれど(→参考)、特殊性を突き詰めた所に普遍性は見えてくる。

 実際、「これからの世の中で必要とされるのは、知識ではなくて、課題を自ら発見し解決する能力だ」ということが言われたりするけれど、そんなことは「これからの世の中」ではなく、昔からずっと必要だったのだ。物事を真摯に見つめ、ニュートラルな立場から掘り下げて考えることの出来る人は、とうの昔に気付いていたはずなのである。

 理想と現実、という対比がある。進路指導の話を聞いていると、「現実」へのシフトが大きい。だが、私たち大人が、子供に追い求めさせるべきは「理想」だ。「現実」などというものは、意識しなくても目の前に襲いかかってきて、意識することを余儀なくされるものだ。一方「理想」は、意識して追いかけなければ、追いかける価値のあるものであることを教えていかなければ、忘れ去られてしまう傾向がある。だいたい、何事においても、価値のあるものは面倒で、安易に手に入るものは正義から遠いのである。大人、特に教員が教えるべきは処世術ではなく、やはり理想の追求だろう。(→参考

 というわけで、おそらくこの分野でも、私の考えは人と逆。進路担当という新しいポストも、今のうちから更迭の日が見えているのであった。