峠の湯・追分温泉

 甚だタイトな二日間だった。日頃、できる限り車を使わないように心がけている私が、本当にやむを得ず車に頼り、250キロ以上も走った。いつもの1ヶ月分に近い。
 昨日は、修業式が終わるとすぐに学校を出て仙台に行き、「船員教育機関と内航海運業者との意見交換会」(東北内航船員対策連絡協議会主催)というのに出席した。東北六県の水産高校教員と内航船海運組合総連合会代表、そこに所属する内航海運業者の一部、そして東北運輸局海事振興部の人、合計でも13名の小さな会である。話の中身はともかく、着くなり「平居先生!平居先生ですよね?!」と声を掛けられてびっくり仰天。私が初めて出席する会だし、なにしろ、私は普通科教員で、その手の世界には元々縁もゆかりもないのである。
 それは、20年以上も前、石巻高校で最初に受け持った生徒の一人Kであった。当時どのような関わり方をしていたかは記憶にないが、顔も名前もよく憶えている。高校卒業後は、東京商船大学(現・東京海洋大学)に進んで、セメント運搬の内航船に乗り、2年前から陸上勤務になったのだという。名刺には「海務部長」とあった。う〜ん、凡庸な教員でも、27年も続けてくると、いろいろな卒業生がいるものである。もちろん、そうして社会で活躍している姿を見るのは、とても嬉しい。
 2時間あまりの会が終わると、本当はとても出たかった懇親会を欠席し、車で追分温泉に向かった。教員の人事異動が発表になったこの日、宮水の進路指導部からも転出者や校内での配置換えがあったということで、転出者の希望により分散会を追分温泉で行うことになったのである。(ちなみに私は宮水残留=7年目に突入、校内ポストも変わらず。)
 追分温泉とは、石巻市北上町の里山にある温泉である。その鄙びた雰囲気、木造校舎の小学校のような風情ある建物、そして何よりも海の幸をふんだんに使った料理によって、今や全国的にも名を知られるようになった。石巻市の中心部からだと車を飛ばして50分くらい。北上町から津山町に抜ける県道64号線が、峠に向かって急な上りにかかる直前にある。
 噂では、年間を通して予約を取るのが至難ということだったが、平日ということもあってか、1ヶ月前に簡単に予約が取れた。
 私は、数年前に家族で一度泊まったことがある。相変わらず風情のあるいい建物だ。掃除が行き届いている木造の建物は、本当に気持ちがいい。料理も期待通り。お湯は熱めで、私の趣味には合わないが、樹齢500年という榧(かや)の巨木で作った風呂場は、これまた温泉情緒満点だ。これで1万円でけっこうなお釣りが来るのだから、評判になるのもよく分かる。
 ところが、この温泉は、名前が有名な割に、歴史や泉質に謎が多い。事前にせっせとインターネットで調べてみたが、見付けられなかった。現地へ行けばパンフレットか何か置いてあるかと思っていたが、それもない。風呂場の回りにも、どこの温泉にもある泉質(成分分析の結果)や効能を書いた表示がない。
 そこで、今朝、玄関で会ったおばあさん(元?経営者の妻らしい)に、あれこれと尋ねてみた。そして聞いたのは、次のような話である。

「この宿ができたのは昭和23年(1948年)です。ここでは当時、金を掘っていました。鉱山があったんです。道路の向こう側の斜面に、コンクリートの何か見えるでしょ?あれは、鉱山で使うダイナマイトの保管庫の跡なんですよ。
 福島県の相馬から来た請負師(鉱山の人足集め)が、事業として宿を始めました。鉱山で働いている人のために、というものではなかったようですね。当時もこの宿までのバスの便はなかったので、橋浦までバスできたお客さんを、宿のオート三輪で迎えに行ったりしていました。バスの終点からは、だいたい2里=8キロくらいです。今は3代目になります。金鉱山が廃業したのは、昭和47年(1972年)でした。
 ここのお湯は、実は温泉ではなくて、水を湧かしているものです。ただし、水とは言っても、ただの沢水ではありません。金を掘るために使っていた坑道、地下150メートルの所から汲み上げている水で、金鉱泉なんです。成分を分析してもらったことはあって、そんじょそこらの温泉よりもたくさんの有用成分を含み、本当にいろいろな病気に効くすごい水なんです。熱いですか?いや、それは熱いのではなく、肌に刺激があるからそう感じるだけでしょう。設定は41度ですから。
 沸かし湯には、成分表示を出してはいけないという規則があるらしいので、平成8年(1996年)に増改築した時、その表示を外したんです。「温泉」と名乗ることについては、問題は無いみたいですね。
 東日本大震災の時は、海岸近くに家があって被災した人が、たくさん避難してきました。大きな冷蔵庫の中に魚とかいっぱいあったので、みんな食べていただきました。借りてきた発電機で、震災から11日目にお風呂を沸かしました。避難者の最後の一人がいなくなって、営業を再開したのは7ヶ月後だったでしょうか。避難者の方がいるうちは、営業する気にはなれませんでした。
 今は、インターネットを見て、全国からお客さん来て下さいますね。石巻登米の学校の先生も多いですよ。少し早めに電話して下されば、予約が取りにくいというほどでもないと思いますけど・・・。」

 おばあさんの語り口も、穏やか、素朴でよかった。実際に話していたのはせいぜい20分くらいだったが、いい時間だった。この地に金鉱山があった、しかもそれが私の小学校時代まで続いていたとは驚きだ。だが、事実なのだろう。宿には「大阪藤間興業大峯鉱山」という事務所の掛札が保存されている。
 今日は雲一つない快晴だったのだが、山間の宿にはなかなか日が差さない。6時過ぎに目覚めた時には、まだ夜が明けていないとさえ思った。7時を少し過ぎて日が差し込んでくると、玄関前の噴水につららがたくさん出来ているのが、キラキラと輝いて見えた。噴水につららが出来るというのは、余程冷え込んだ証拠だ。
 朝食は8時から。宿自体ものんびりしたものである。私はせかせかと食事をすると、急いで宿を出て車に乗った。もっとのんびりしていたかったのだが、10時までに仙台港に行かなければならなかったのだ。