文系の充実・・・ラボ・トーク第7回

 昨晩は、ラボ・トーク(→とは?)第7回であった。今回の講師は、フランス文学者で青山学院大学国際政治経済学部教授・國分俊宏氏、演題は「プルースト失われた時を求めて』への招待 〜文学・翻訳・外国語を考える〜」。
 とは書いたものの、今までのような本当の講演形式ではなく、我らがラボ・トーク主催者の一人・スダマサキさんとの対談形式であった。東京からゲストを招いたことといい、対談形式といい、初物づくしのラボ・トークとなった。東京から出版社の編集者や他大学の先生が同行してきたこともあり、一般参加者もいつになくバラエティーに富んでいて、ちょっと雰囲気の違う会にもなった。
 予約していた一般参加者の集まりが悪かったこともあって、定刻を数分過ぎた頃に、プレ・トークの形で、『失われた時を求めて』の数ある邦訳についてや、國分先生が訳された本の出版裏話のようなことが語られた。本番のプルーストについてのお話も非常に面白かったのだが、お話を聞くと『失われた時を求めて』を読んでみたくなる。しかし、私が学生時代から20世紀フランス文学の最高傑作との評価が高いと知りながら、今に至るまで手を出せずにいるとおり、『失われた時を求めて』は名声著しく高い上にあまりにも長く、手に取るには覚悟が必要だ。話が面白ければ面白いほど、素晴らしいご馳走を目の前に出されて、食べることを禁じられているような、そんな感じに思えてきて少し欲求不満を感じてきた。その意味では、むしろプレ・トークの方が気楽に聞いていられて、内容的にも興味深かったような気がする。対談は、参会者の集まりを見ながらスムーズに本番に移り、1時間半続いた。会場全体に濃厚な知性の「気」が満ちてくるような、すごい対談だった。
 大学院での同級生だというスダマサキさんと國分先生との息もぴったり合っていた。スダさんは、今でこそカンケイマルラボという食器屋さん(?)のご主人だが、スイスに4年あまりの留学経験があり、大学でフランス語やフランス文学を講じてきたれっきとした仏文学者だ。もちろん、彼のそのような履歴は知っていたのだが、なにしろ「能ある鷹は爪を隠す」の典型のような人物である。隠しきれない教養を全身から滲み出させてはいるものの、「器屋の親父です」と言うばかりで、仏文学者としての実績をほのめかすようなことは一切ない。日頃からかなり頻繁にスダさんと会う機会のある私も、「仏文学者・スダマサキ」を目の当たりにしたのは、昨晩の対談が初めてだ。感動は新鮮かつ強烈だった。
 ラボ・トークでは、講演後の宴会で、必ず参会者全員に自己紹介(ショート・スピーチ)してもらう。昨日の自己紹介の中で、「自分は小説といえばストーリーを追う読み方しかしてこなかった」と語った人がいた。私も同類である。しかし、そのような読み方が決していいわけではない、少なくとも、そうではない読み方が必要な小説というものが存在する、ということは知っていた(→『ライ麦畑でつかまえて』の話)。だが、そうではない読み方が必要な小説というのは、異様な集中を強いる。
 ノンフィクションや歴史文献であれば、極端な話、新聞記事と同じで5W1Hが把握できればそれでよい。一方、小説というのは、作家が一つ一つの表現を練り上げ、一字一句に様々な内容とニュアンスとを込めている。人間の心のひだを、本当に小さな表現から読み取っていかなければならず、無限の解釈をも生む。そういう意味で、私は小説を読み味わう余裕を失って久しい。いや、そのような読書体験は持っていないのかも知れない。そして、多くの人は、やはり私と同様なのではあるまいか?
 「文化の質はかけた手間暇に比例する。」(←久しぶり!)それは、「書く」側だけではなく、「読む」側にも当然通用する。スピーチの中で、主催者団のボス・坂田先生が、「人文系の実力がその大学の価値を決める」と述べておられた。確かにそうかも知れない。必然的に手間のかかる理系と違い、文系は、意識的に手間をかけなければごまかしが通用する可能性のある世界だ。だからこそ、文系でごまかしなく手間をかけている大学は、学問への姿勢がよいことを示す。
 もちろん、大学だけの話ではない。ラボ・トークもおそらくそうだし、私たち個人の内面についても言える話だ。じっくりと対象に向き合い、作品とも自分とも対話すること。そこから生まれてくる価値は、決して定量的に把握できるものではないけれども、間違いなくある種の豊かさを生む。そんなことを考えさせられた時間だった。