北欧的とは?

 3月になったから、というのか、一気に春らしくなってきた。
 先週末は、まず第2回の登山部顧問冬山研修会に出席した。場所は国立花山青少年自然の家。土曜日は前回(→こちら)の続きとして、外部講師から低体温症、ビーコン捜索技術(続)とその際のトリアージについて、といった講話があり、夕食後は、積雪期のプランニングについてのワークショップを行った。少なくとも今の学校にいる限り、幸か不幸か、生徒を雪崩の心配がある場所に連れて行くことなんか絶対にない、と断言できる私としては、この研修会はある意味で無駄である。しかし、面白いからいいや、ということを別にしても、いろいろと応用の可能性がある。低体温症に関する知識は、夏山でも必要なものだと感じた。
 日曜日は、場所を栗原市耕英に移し、前夜プランニング実習で立てた計画に基づき、実際に山を歩く訓練である。前回同様、今回も素晴らしい天気。場所が宮城県の北西の隅っこであるということや、宿泊施設からの移動の時間ロスなどもあって、山中行動がわずか3時間というのはなんとも惜しい。そう思わせるような春山だった。もちろん、栗駒山も完璧に見えている。美しい!
 ところが、3時間でも短すぎるフィールド実習を、若干早めに切り上げて、私は一人で下山してしまった。向かったのは仙台である。15時から、イズミティ21で、イギリスはBBC交響楽団の演奏会があって、早々に稀少なB席のチケットを入手していた。その頃には、3月3〜4日は生徒向けの研修会ということになっていて、私(と塩釜高校の生徒)はまったく参加の意志がなかったのである。
 指揮はサカリ・オラモ、曲目はブリテンの歌劇「ピーター・グライムズ」から4つの間奏曲とパッサカリアチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(独奏:アリーナ・ポゴストキーナ)、そしてシベリウス交響曲第5番。シベリウス交響曲第5番は、1月の仙台フィル定期で聴いたばかりである。シベリウスなんて、仙台にいると2番しか聴く機会がない。私のそれなりに長いライブ・リスナーとしての歴史の中でも、2番以外では、おそらく、6番と7番の演奏に一度接しただけ。5番だって、今年1月が初めてだったと思う。それが、わずか1ヶ月半後に再びなのだから、「確率」というのは分からないものである。
 私よりも確か3つ若く、ステージの出入りを見ている限り、体調に問題ありそうにも見えない指揮者が、椅子に座って指揮棒を振っているのは不思議だったが、どれもこれも、演奏は立派なものであった。ちなみに、アンコール曲は、ヴァイオリン協奏曲の後が、同じくチャイコフスキーグラズノフ編曲)「なつかしき思い出の場所」からメロディー(オーケストラ伴奏付き)、シベリウスの後が、やはり同じくシベリウスの「ペリアスとメリザンド」間奏曲、更にアンダンテ・フェスティーボ。アンダンテ・フェスティーボというのは、私の知らない曲だったのだが、これはなかなかの佳曲。それをフィンランド出身の指揮者が思い入れたっぷりに演奏する。
 第5番にしても、聴いていると、まるでフィンランドの空気の中にいるような北欧感を感じる。と思ったところで、北欧的とはいったい何であろうか?私はなぜそれを「北欧的」と感じるのであろうか?ということががぜん気になり始めた。
 私は恥ずかしながら、シベリウス以外にフィンランドの作曲家を知らない。範囲をスカンジナビア半島、もしくは北欧4国に拡大しても、グリーグノルウェー)、C・ニールセン(デンマーク)が知識の範囲に入ってくる、というだけである(ブクステフーデもデンマーク出身だが、彼をデンマークの作曲家と言うのは違和感がある)。シベリウスの作品だって、アンダンテ・フェスティーボを知らなかったとおり、決してよく知っているとは言えない。多少なりとも知っていると言えるレベル(=楽譜を見ながら鼻歌を歌える)にあるのは、ヴァイオリン協奏曲と交響曲第2番、交響詩フィンランディア」くらいであろう。だとすれば、私が「北欧的」と感じるのは何によるのか?私にとっての「北欧的」は、実は「シベリウス的」ではないのか・・・?
 だが、思えば、私は「日本的」というイメージをどのように作り上げてきたのだろう?私にとっての「日本的」は、他の人にとっての「日本的」と一致しているのだろうか?
 フィンランド、もしくは北欧についての様々な情報が電気信号で脳に送られた時、それが形であるのか、色であるのか、音であるのか、文学(言語)であるのかに関係なく、北欧の情報として統合する機能が脳にあるとすれば、写真で見る北欧の風景や、よく目にする北欧の家具や器といった視覚情報によって、脳が音楽を「北欧的」と認識することも起こり得る。それはあり得ないことだろうか?いや、私が得たことのある北欧に関する情報のほとんどは視覚によるものだから、そのような現象が起こり得ることを認めないと、シベリウスに北欧を感じることの説明は付かないような気がする。
 フィンランド出身の指揮者が奏でるシベリウスの北欧的としか言いようのない雰囲気に打たれた私の関心は、音楽に関する感動を離れて、脳の認識機能へと向かったのであった。