中国音楽研究会のこと(1)

 昨年の今日、小澤玲子さんがお亡くなりになった(→こちら)。命日である。私はこの方が長く主宰してこられた「中国音楽研究会(中音研)」について、2014年10月半ばに3回連載の記事を書いた。学術雑誌に寄稿するほどのものではないので、とりあえずブログの記事にしたのである。ところが、小澤さんから、自分がもう少し補足をするので、一度公開を停止して欲しいと言われた。私は記事を削除した。小澤さんはその後、中音研に関する記憶の整理を始められたようだった。そして、それが完成する前に亡くなった。しかも、小澤さんは亡くなる直前、お住まいのマンションで火災が発生して焼け出された。ご自身の部屋そのものは、燃えずに済んだようだったが、傷みはひどかったようで、その際、どれだけのものを持ち出すことが出来たのかは分からない。亡くなった後、ご遺族から、小澤さんが書いていたものが見つかったら必ず送ります、という連絡をいただいていたが、既に1年。もうそれが発見される可能性はないだろうから、4年前に私が書いた中音研と『新中國の音楽』に関する歴史を改めて公開しておくことにする。内容が不十分であることは、小澤さんから生前指摘されていたとおりであるが、それを断った上であれば、公開することによる社会的価値の方が大きいと思うからである。
 以下、2014年10月執筆記事(本文中の時間の起点がこの時であることに注意)。


 「中国音楽研究会」という団体について、最近私が知ったことを、少し整理しておこうと思う。動機は以下のとおりである。

 私が、抗日戦争時期の中国文化について調べ始めた1990年頃、中国音楽研究会編『新中國の音楽』(飯塚書店、1956年)という本を古本屋で見つけた。「新中國」というのは、辛亥革命(1912年)以降、この本が出版された1950年代半ばまでを意味するらしいが、この時期の政治史や軍事史ならともかく、文化史を主題とする本などほとんど見当たらなかったから、貴重な本だと思って購入した。全部で260ページ余りあるうち、本文は70ページ余りに過ぎず、他の190ページは、歌曲の楽譜(訳詞付き)180ページと、中国音楽史の年表10ページである。当時の私には、中に書かれていることの真偽や、情報選択の妥当性についてはまったく分からなかった。しかし、その後、抗日戦争期の中国国内の状況や、それについての研究状況が見えてくるにつれて、むしろ、この本の編纂者である「中国音楽研究会」という存在が気になり始めた。
 と言うのも、名前を見る限りでは学術団体であるに違いないこの研究会が、私のアンテナにはどうしても引っかかって来ず、誰が主宰し、どこでどのように活動している団体であるかが皆目見当付かなかったからである。本の実際の執筆者は3人で、中には村松一弥という少し有名な中国音楽学者も含まれている。この方は、少なくとも1990年頃までは東京都立大学で教授の地位にあったことが間違いないので、そのルートで問い合わせるなどすれば分かったのかかも知れないが、そこまでするほどの意欲が私にはなかった。今は、1926年生まれである村松氏は、ご存命かどうかさえ分からない。
 そうしていたところ、昨年の初夏であったか、「黄河大合唱」という1939年に中国で作曲された音楽(→こちら)の、大阪・神戸における演奏の記録を調べていて、某人から小澤玲子さん(85歳)という方を紹介された。関西合唱団が、抗日戦争期の中国文化の初期の輸入者の一人である詩人・坂井徳三氏を紹介してもらった、日中友好協会の関係者としてである。私は驚いた。小澤玲子さんは、『新中國の音楽』の3人の執筆者の一人だったからである。もっとも、執筆者とは言っても、70ページの本文のうち、彼女が担当したのはわずかに2ページ半。当然、3人の中で最も少ない。しかし、私は、小澤さんに会えば、「中国音楽研究会」がどのような団体であるか分かるに違いない、同時に、かつての日中文化交流史について、聞けるだけのことは聞いておきたいという気持ちから、小澤さんに連絡を取り、千葉県市川市の自宅にお邪魔した。昨年9月22日のことである。
 話を始めてすぐに、私は、荷物から『新中國の音楽』を取り出し、この本を作った「中国音楽研究会」について教えて欲しい、と言った。私がその本を見せたとたん、彼女は驚きの表情を浮かべ、「そんな本をどこで手に入れたのですか?中国音楽研究会は私が作り、その後の運営もほとんど一人でやって来たんです・・・」とおっしゃった。驚いたのは私である。わずか2ページ半の執筆だから、中心的な人物だとは思いもしなかったのである。
 その後、今年の10月4日も合わせて、のべ10時間ほどお話を伺い、明晰な記憶に驚嘆しつつ、いろいろな話を伺いながら、彼女が特に日中国交回復前の日中文化交流史、特に音楽分野においては、正に日本の中心人物と言ってよいほど重要な役割を果たした方であることを知った。また、小澤さんの手元にあった紙の資料の全て(段ボール箱二つ半)を一度石巻にお借りしたり、更には、小澤さんが昔、横浜の華僑団体に寄付した資料(レコードを含む)を取り戻していただいたりまでした。これら一連の作業によって、「中国音楽研究会」の何たるかと、その成立の時代的背景といったものがおよそ見えてきた。学術論文にするほどのものかどうか分からないし、仮になるとしても、それまでには、まだしばらくの時間がかかるだろう。一方、私のように、何かの折りに「中国音楽研究会」という名前を目にして、その何たるかに悩む人も出てくるかも知れない。だから、ここに、仮の整理をしておこうと思った、ということである。(続く)