娘と原爆の是非を考える(2)

 私は娘の混乱と沈黙を、ある種の痛快感をもってしばらく眺め、娘が答えを出せないのを確かめた上で話を続けた。

アメリカが日本に原爆を落とすというのはそういうことなんだよ。アメリカはAを助けようとしたんだ。ある意味で当たり前だろ?敵の10万人の命のために、断腸の思いでAを犠牲にしたとしても、敵が感謝して「負け」を認めてくれるとか、仲直りを申し出るということも起こらないだろう。するとなおさら、自分にとってかけがえのない1人の家族と、名前も顔も知らない10万の外国人とを天秤にかけて、身内を犠牲にするっていうのは、ほとんど『アホ』と言ってもいいほどのお人好しだ。通常はあり得ない。
 いくら原爆は多くの民間人を巻き添えにしたとか、爆撃の瞬間だけではなく、放射能による後遺症で人々を苦しめることになったとか言ったって無駄さ。それがアメリカ人の利害と関係ないというだけじゃない。日本国内について考えてみても、原爆が使われず、戦争が長引いたことによって家族を失った日本の100万人の遺族が、家族を失ったことに生涯苦しみ続けることと、数万人の原爆後遺症とどう違うの?どっちが重いの?という話も水掛け論だからね。
 だから、原爆のおかげで戦争が早く終わり、犠牲者が少なくて済んだというアメリカ人の主張に、相手が納得する反論をすることは、おそらく不可能だ。アメリカ人の主張はもしかしたら正しいかも知れない。それはそれで素直に認めればいいんだよ。
 原爆の被害に遭った人達に、何が何でも原爆の使用を肯定するわけにはいかないという気持ちがあるのは仕方がない。だけどそれはただの感情だな。感情的な結論を出発点にすると、議論っていうのは成り立たず、こじれて、逆に事態が悪化することにもなりかねない。パパはそこを乗り越えられるようにして欲しいわけさ。
 いいか?するとね、問題なのは結局、原爆じゃなくて戦争なんだよ。戦争は命を取るか取られるかの厳しい勝負だ。本当に生きるか死ぬかという時に、人道的とか、ルールを守るとか言ってられるわけがない。戦争をする以上必然的に人間は狂気に追い込まれていくし、そこで数限りない不条理が生まれてくる。そんな中の一つに原爆があった、っていうだけだ。だから、過去の戦争を振り返った時には、あの原爆はけしからん、というような議論もできるけど、この平和な世の中で、将来、戦争になった時に原爆を使っていいかどうか、なんていう議論をすることにはおそらく意味がない。戦争が始まってしまえば、原爆も含めて、どんなことでも起こる可能性がある、戦争とはそういうものなんだ、だから悲惨なんだ、と認めることが大切だ。原爆は二度と使ってはならない、ではなく、戦争は二度としてはならない、しかないんだよ。違うかね?
 さあ、だったら二度と戦争を起こさないために、お前には何ができるの?さすがにこっちはもう少し自分で考えてみろよ。」

 娘は納得したようだった。が、それよりは、昨日書いた「A1人と10万人のアメリカ人と、どちらを取るか?」という問いに対する衝撃が尾を引いているようにも見えた。さて、娘は自分にできることとして何を考え出すだろう?(完)