映画「ひろしま」

 土曜日が文化祭だった関係で、今日はお休み。
 昨日(日曜)、朝から娘と映画「ひろしま」を見た。8月17日にEテレで放映された104分の映画で、見逃していた私に、同僚がDVDの形で貸してくれたものである。
 私はこんな映画の存在を知らなかったのだが、驚いたことに企画・制作は日本教職員組合、すなわちかの「日教組(にっきょうそ)」である。(以下、主にwikipediaひろしま」による)日教組は戦後7年目に当たる1952年8月に、機関会議でこの映画の制作を決定。組合員の1人50円カンパで、2400万円を集め、制作決定からわずか1年でこの映画を完成させた。単純計算で、カンパしたのは48万人。日教組は文部省(現・文科省)が調査を始めた1958年の組織率が86.3%なので、5年余りのズレはあるが、1県1万人というこの数字は不自然なものではない。
 驚くのは、やはりその速さである。この映画は長田新編『原爆の子~広島の少年少女のうったえ』(岩波書店、1951年)を八木保太郎が脚本化したものである。「お任せ」ではなく、八木の脚本を広島県教職員組合で討議し、4回の書き直しをした。監督は関川秀雄、音楽は伊福部昭が担当。岡田英次月丘夢路山田五十鈴などの豪華キャストの他、なんと8万8千人もの広島市民がエキストラとして参加した。シークエンス(場面)は168に及ぶ。それでいて、撮影開始は1953年5月21日。同年8月10日には試写会にこぎ着けている。現像、編集といった作業も必要であることを考えると、本当に驚くべきことである。
 原爆、もしくは戦争に対する憎悪が渦巻き、戦後日本を作ろうとする活力が漲っていたのだろう。わずか1年での「ひろしま」完成は、そんな時代状況を鮮明に物語る。今や、ほとんど御用組合と化している日教組ですら、加入率は22.6%(2018年秋)。日教組が分裂してできた全教(全日本教職員組合共産党系の左派)加盟の宮城高教組は消滅の寸前。戦争の傷跡いまだ癒えず、貧しい生活が続いていたとしても、閉塞した時代に生きる私たちからすれば、「うらやましい」と言ってよいような状況だ。
 しかしながら、映画はやはり内容で勝負である。娘と見た「ひろしま」はどうだったのか?上に書いたような強い推進力によって作られた映画が、悪いわけがない。白黒で、特撮やメークも今の映画の水準に比べるべくもないとは言え、制作者・出演者両方の「伝えたい」という思いの強さは、そのまま迫力となって画面からあふれ出てくる。ロケが行われた原爆ドームも、現在の整備・保存されている美しすぎる原爆ドームに比べれば、はるかに廃墟的で生々しい。授業中に鼻血を出して入院した女生徒の病状を、担任がクラス全体に明かした上で、被爆者に手を上げさせるといった、今ではプライバシーとの関係で絶対にあり得ないシーンも印象的だ。戦争、原爆、世相というものを実際に体験し、肌で感じていた人々が出演していることもあって、歴史資料に基づく復元とは違う現実感がある。「ひろしま」は、1955年のベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞した。
 ところが、この映画は人々の目に触れる機会が少なく、「幻の映画」「忘れられた映画」とさえ言われてきたらしい。それは、GHQによるアメリカの支配から脱した直後、まだアメリカの影響が強く残っていた時期にあって、その反米色の強さが映画配給会社に二の足を踏ませることになったからである。松竹、東宝など、配給大手5社が相次いで配給を拒否したり、大阪府のように「教育映画」としての推薦を断った公的教育機関が現れたりしたため、自主上映といった形で細々と鑑賞されてきたようだ。
 映画を見終えてから、あれこれと調べている中で、Eテレでこの映画が放映された1週間前、8月10日にはETV特集で「忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”~」という番組が放映されたことも知った。残念ながら私は未見だが、約6分のダイジェスト版のみネットで見ることができる。そこで、2017年、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞した際に授賞式に出席し講演した被爆者・サーロー節子氏は、「今まで見た広島のフィルムの中で、これが一番あの時の私の経験したことを身近に感じさせてくれる」と語る。
 現在はDVDで安く入手可能なようだし、単に「原爆は悲惨だ」というだけで終わらせるわけに行かないというのは先日書いたとおりだが(→こちら)、もっと多くの人に見られていい映画だと思う。