「知ること」と「感じること」

祝:今日は塩釜高校の創立10周年記念日。残念ながら、予定されていた記念式典は中止。

 

(11月4日付け「学年だより№68」より②)

 

【知ること、と、感じること】

 私が「古典」の授業を担当している3組と9組は、少し時間に余裕があったので、寄り道をし、『徒然草』第52段を読んだ。
仁和寺のある法師が、長年の願いであった石清水八幡宮への参詣を果たした。ところが、石清水八幡宮は山の上にあるのだが、法師はそのことを知らなかったので、麓にある極楽寺や高良神社を石清水八幡宮だと思い、そこだけ拝んで満足して帰って来た。」
 兼好はこのことに基づき、「少しのことにも、先達はあらまほしきものなり(ちょっとしたことでも案内人というのは必要だ」と論評する。
 案内人でなく、本でもいい。知識というものがなければ、何を見ていいかが分からない。案内人や予習は大切だ。一方、それとは逆の見方が存在する。知識があると純粋さがなくなる、心を無にして素直に対象を見ることが大切だ。そういう見方だ。
 次の文章を読んでみて欲しい。有名な宮大工・小川三夫氏の言葉だ。

「(法隆寺に)修学旅行で来て、五重塔を見ていた時に後ろで案内の人が、この塔は1300年前に建ったものですよって言われたんです。その1300年前というのが、私は栃木ですから、そんな歴史は全然わからないんですが、すごいなと思った。それが宮大工になるきっかけだったんです。」
(小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』文春新書、2010年より。本物の「学年だより」では、この前後も含めて前後約2ページ分を裏面に貼り付け。今、ブログのために必要最少限の部分をここに引いた。)

 本全体を読むと、明らかに氏は後者の立場、すなわち、知識に否定的だ。氏は修学旅行で法隆寺を見て感激し、宮大工になった。しかし、氏は何の知識もなく、法隆寺の偉大さに打たれたわけではない。上を読めば、「1300年前に作られたものです」という知識を「先達」から教えられることによって、急に真剣な気持ちになり、その結果、法隆寺のすごさに感激したことが分かる。「1300年前に作られた」という知識がなければ、氏の心が法隆寺に向かったかどうかは分からない。
 私が思うに、知識はあればあるほど面白くなる。いや、なければ見えないものがたくさんある(けど、知識のない人は、そのことにも気付けない)。だが、知識を確認するような目で対象を見るようになると、それはそれで見えないものが出てくる。知識を利用しつつ、純粋に対象を見つめる心も忘れない。何をする時でも、結局心の持ち方というのが問われてくる。

*他の記事は省略