自然の許す限り・・・

 今日、法隆寺から封書が届いた。開けてみれば、クラウドファンディングでわずかばかりの寄付をしたお礼である。
 6月の中旬に、法隆寺クラウド・ファンディングに触れた(→こちら)。結局、2000万円の目標金額に対して、7月29日に締め切られた時には、7456人から1億5700万円の支援が寄せられた。目標を遙かに上回る寄付が集まったことは、法隆寺の価値をどれほど多くの人が認めているかということをよく表しているが、募金が始まって3日後の6月18日に記事を書いた時には、既に7000万円を超えていたから、その後の伸びはさほどでなかったということになる。特に7月半ば以降は、数字があまり動かなかった。
 また、1億5700万円という数字は、目標の約8倍で、樹木の剪定等をして境内を整備するためには十分なお金だろうが、それは当面の話である。そのお金がなくなってまたクラウドファンディングだ、となった時には、今回ほどの勢いでは寄付が集まらないだろうし、そのお金で建物や収蔵物を補修しようとすれば、あっという間に消えてなくなる金額だと思う。支援者全員に84円の封書を出せば、郵送料だけで62万円を超える。手間賃を考えなかったとしても、封筒や印刷代を考えると、70万円になるだろう。そんなことにお金を使わなくてもいいのに、と思った。
 ところで、支援をする場合は、主催者にメッセージを添えることができる。6月20日、私が書いたメッセージは次のようなものであった。

「期限内に支援しようと思っていたら、あっという間に目標額をはるかに超えてしまい、法隆寺は本物の「国宝」だと実感しました。自然の許す限り、今の法隆寺の建物が存続しますように。」

 問題は後半、「自然の許す限り」である。どんなに立派な材料を使い、優れた技術で建てられた建物でも、「永久」ということは絶対にない。なにしろ木造建築なので、限界と思われた部材はいくらでも取り替えることができる。少しずつ交換して、創建当時の部材が完全になくなった時は、明らかに「世界最古の木造建築」ではなくなるはずだ。では、5割交換の時点では?3割なら?・・・そもそも、どこかの時点で、部分的交換は限界で、再建の必要があるという話になってくるだろう。その決断には勇気が要るだろうが、必ずその時はやって来る。それが「自然の許す限り」ということである。言い方を変えれば、自然が許さない時が来たら、いかに法隆寺と言えども、解体・再建やむなし、ということである。
 西岡常一(1908~1995年)という、昔、法隆寺専属の宮大工棟梁だった人は、「檜は切った後、適切に使えば、生えていた時と同じだけの長さの命を持つ」というようなことを言っていた。法隆寺を支えている檜は、樹齢2000年前後のものであると言われている。法隆寺が建ってから、現在は約1400年の時点にいる。樹齢2000年の檜が、材として2000年もつとすれば、あと600年は大丈夫ということになる。
 本当に600年もつかどうかは分からない。西岡氏だって、自分で確かめたわけではないからだ。だが、少なくとも私が死ぬまでの間に「限界」とはならないだろうし、果たして人間の世が、あと100年も200年も続くのかさえ怪しくなってきたのだから、さほど心配には及ばないのかも知れない。ただ、命は全て「自然の許す限り」でしか存在できない。そのことに対しては謙虚でありたい。今の世の中を見ていると、様々な遺構や記念物など、何かにつけて「残せ、残せ」という声が強く、そんな潔さが失われているような気がしてならない。

 


補足1)法隆寺は、支援者のコメントに対して、全て返信している。「頑張って下さい」という最も単純で短いものに対しては、「ご支援ありがとうございます」という文言のコピペになっているが、それ以外のコメントに対しては、さほど代わり映えがしないにはしても、いちいち書き込んでいるのが分かる程度には変わっている。記録として、私のコメントに対する返信を書いておこう。
「ご支援ありがとうございます。おかげさまで目標を達成することが叶いました。皆様の期待に応えられるよう、伽藍の維持営繕に努めてまいります。」


補足2)国宝や重要文化財の補修には、国費が投ぜられる。上で、「建物や収蔵物を補修しようとすれば」と書いたのは、あくまでも、未指定の建物や収蔵物である。今日届いたお手紙には、「境内の維持管理および未指定文化財の修理等のための費用として大切に使用させていただきます」と書かれている。さすがに正確な表現だ。